催眠術ってほんとにかかるもんなの?
作者には催眠術に対する専門的な知識はありません。よって本作に登場する催眠術の施術方法や内容にはいい加減だったり誤った描写もあると思われます。決して安易に真似したり試してみたりしようとはしないで下さい。
午後になってから降り始めた雨が部室の窓ガラスを静かに叩く音が聞こえる。
晴れた日ならグラウンドで活動する運動部の喧騒で煩いくらいだが、今日みたいな天気に外で活動するような猛者はうちの高校にはいないらしい。それでも校舎内でいくらかは活動しているんだろうがそれらの音は雨にでも吸われたのかどこか遠く聞こえる。
こういう日は絶好の読書日和であるからして我らが天領高校文学部も絶賛活動中だったりする。まあ、文学部などと御大層な名を冠してはいるが、部長の俺──吾川文人を含めて部員総数二名の同好会以下の万年廃部の危機にさらされている零細の極みの部活なんだがな。
こんな部活が今も潰されずに存続しているのは創立当時からの伝統と、顧問が三年の学年主任という権力に拠るところが大きい。
一応は俺達も真面目に活動はしていて、年に一度の文化祭では部誌も発行している。文学部における唯一の形として残る活動実績で、これを毎年発行することと最低でも一名の部員を確保することが文学部存続の絶対条件にもなっていたりする。
日常における部の活動としては、部室内に置いてある本を読んだりもう一人の部員とディスカッションという名目の雑談したり、あとは何故か部室の一角で小山を作っているボードゲームを発掘してきてやってみたりといったところか。
本を読む、というのは文学部におけるメイン、というか花形ともいえるものなので何も問題ない。部室内の蔵書はゴリゴリの純文学から経済やら政治なんかの難解な学術書、これ全年齢でいいのか?な挿絵のついた中二心を擽られるライトノベルや漫画などなど、多岐にわたるジャンルが収められている。
部長の俺と部員一名という体制になってからの活動時間の大半を占める雑談についても話の中身には読んだ本の内容だったり感想だったりも多少は含まれているのでこれについても問題ない筈だ。
ボードゲームについては・・・だな、部室に保管されている物は部の備品であって、部の活動中に部の備品を使用するのは当たり前であってやっぱりこれも問題ないだろう、多分。
という訳でやはり普段から真面目に活動していると胸を張っても問題ないな、うん。
「どうしたですか、先輩。そんなひとりでしきりにうなずいたりして、見えないお友達とでもお話してたですか?」
「部員一号は俺のことをなんだと思っとるんだ。友達の居ない寂しい人のように言いおって」
「え?先輩って、友達いるですか?いつも部室に居るし他の人と一緒にいるところって見たことないですけど」
「ふっふ、煽りよるわ。ていうか部室にいつも居るのはお前も同じだろうに・・・」
「何か言いましたかあ、先輩?」
「いや、何も。で、お前の方は何してたんだ? さっきから珍しく熱心に読んでたみたいだが」
この後輩、普段は殆ど本なぞ読まない、珍しく何かを読んでいると思っても大体がマンガだったりする。たまに何でこいつは文学部なんぞに入部したのだろうかと不思議になるがこちらとしてはこいつのおかげで廃部から免れている現状とやかく言うつもりは無い。まあかく言う俺もそこまで真面目に文学部しているわけではないのでとやかく言えないというのが正解かもしれないが。
その辺は置いとくとして、もっぱら開くのはマンガばかりといった後輩がなにやら真面目そうな装丁の書物を熱心に熟読しているとなれば天変地異の前触れかもしれないと思ってしまっても罰は当たるまい。
「ふっふっふー、私が読んでいたのはですねーこれです、これ」
そう言ってこちらに今まで読んでた本をぐいぐいと押し付けてくるが、ええい、顔に押し付けられて読めるわけないだろうが、というか痛いわ。
「ええい、やめんか」
「へぶぅっ」
ぐいぐいと押し付けられるのが鬱陶しくて肩辺りを押し返そうとしたら、本で視界を邪魔されている所為か目測を誤ったらしく部員一号の悲鳴みたいなものとともに手のひらに若干の湿り気を帯びた生温かさと柔らかさを兼ねた感触が伝わってきた。
「何するんですか先輩!この美少女の顔が崩れちゃったらどうするんですか、世界の損失ですよ」
「ほほう、美少女とな・・・、はっ」
自分で自分を美少女と宣う厚かましさを鼻で笑ってやったが、実際のところこやつ、部員一号こと本条佳乃は本人の言う通りの美少女である、それも俺的には校内で五指に入ろうかというレベルで。まあ、黙って座っていればと但し書きが付くが。
これが入部してきた当初は滅多にお目に掛かれないレベルの美少女を相手にどう接したらいいのかと対応に困ったものだが、美少女成分を補って余りあるこいつの残念っぷりに今ではすっかり俺の中でのコイツに対する美少女という扱いは鳴りを潜めてしまっている。
「それで、結局どんなのを読んで・・・、催眠術入門?」
部員一号を押しのけた際に机に放りだされた本の表紙には「図解!サルでも掛かる催眠術入門書」と書かれていた。パラパラと軽く捲ってみると、娯楽優先のトンデモ本かと思いきや意外と本格的な内容っぽかった。いやさ、催眠術なんてもんの専門的な知識なんてかけらも持ちあわせてはいないのでなんとなくっぽいと思っただけなんだがな。
「ふうん・・・、こんなん読んでどうすんだ、お前」
「面白そうじゃないですか? せっかくなんで先輩、試してみましょうよ」
「試すったってなあ、こんなん素人がやったところでどうにかなるもんなのか?」
「それを今から試すんじゃないですか、ほら先輩、どうぞ」
「え? 俺がやる方なの?」
「だって、催眠掛けられたときどんな風になるのかの方が興味ありますもん。ほらほら、もしかしたらエロいことでも何でも言うこと聞くようになっちゃうかもしれませんよ?」
「エロって・・・、お前なあ、自分からそういうこと言うんじゃねえよ」
呆れた様を装いつつも内心でちょっと期待したとしてもしょうがないと思うんだ、だって男子高校生だもの。
まあ、実際のところは掛かったフリでもしてこっちのことからかって遊びたいんだろうなあ。流石にエロいことを何でもは無理だろうが、毎回々々こっちばかりがうろたえさせられても面白くないし、ここはデレ発言の一つでも引き出してやりたくなってきた。
渡された本を流し読みして簡単そうなのをいくつかピックアップして準備をする。
「さて、これから軽い暗示であなたが催眠術にかかりやすいかどうかをテストしますね」
「ぷふぅ、いきなり敬語なんか使っちゃってどうしちゃったんですか?」
「うっせ、こういうのは形から入ったほうが効きそうなんだよ、いいから黙って座ってろ」
「はぁい」
まずは軽く振り子を使ったやつを試してみようと思う、財布から五円玉を取り出したところで糸状のものが無いか探す。部員一号に聞いてみたらあっさりソーイングセットが出てきやがった。
借りた糸を適当な長さでちぎって五円玉に結び付けたら即席の振り子の出来上がりっと。完成した振り子は部員一号に持たせる。
「ん?振り子は私が持つんですか? こういうのって掛けるほうが持ってあなたはだんだん眠くな~るとかやるんじゃないですか?」
「俺もそう思ってたがこういうやり方もあるらしいな。オホン、では今から始めます」
「視線の高さに五円玉が来るように持ち上げて下さい。五円玉をじっと見つめてるとだんだんと右へ、左へと揺れていきます。集中していると動きはどんどんと大きくなっていきますよ、右へ~、左へ~」
最初は揺れているか?ってくらいだったが、なるべくゆっくり落ち着けるように声を掛けていくと五円玉の動きは大きくなってしっかりと揺れているのが分かるくらいになってくる。
「さらに見つめていくと今度は前後に動きが変わっていきますよ、前へ~、後ろへ~、ほうら五円玉の動きはどんどん大きくなっていきます」
こっちの言葉に従って動きが前後に切り替わる。
「さらに見つめていくと五円玉の動きは円を描くようになっていきます。ぐるぐると回る様に動いていきますよ~、ぐ~る、ぐ~る」
円を描くように回る五円玉を見ているとこいつってかなり催眠術にかかりやすいんじゃないかって不安になってくる。変な男とかに騙されたりとかしないだろうか、今みたいに。
「最後はす~っと動きが止まります」
回っていた五円玉の動きが小さくなっていくのを待って適当な所で五円玉を受け取って声を掛ける。
「取りあえずはこんなところか、・・・どうだった?」
「すごいです! 自分では動かしてるつもりが無いのに振り子が勝手に動いてました!先輩、他の、他のももっとやってみましょうよ」
施術をしている間は催眠術に掛かりやすいんじゃって不安になったがこうも喰いつきがいいと今度はやっぱり掛かっているフリをしていたんじゃないかって疑問がもたげてくる。
いや、この本の著者によると術者のほうがそうやって不安に思ったりすると効果が出ないらしいし、もう二、三簡単に掛かりそうなのを試してみるか。
今度は後輩を立たせて後ろに回る。
「じゃあ次のやってみるか、まずは動きの予行演習です、しっかり支えていますからそのまま後ろへ倒れ込んでみてください。大丈夫、しっかりと支えますので」
支えているのが分かる様に肩のあたりに手を添えて体重が掛かってくるのを受け止めてやる。
男子とは違う女子のほっそりとした柔らかさに内心ドキドキしながら言葉を続ける。
「では一度体勢を元に戻しますね。これから肩に触れるとあなたの体が後ろへと引っ張られていきます。必ず支えますので安心してください。三つ数えてから肩に触れると後ろへす~っと引っ張られますよ」
一つ二つ三つと数えてから肩に手を触れると引っ張られるように後ろへと倒れ込んでくるので本当に倒れたりしない様に支えてやる。
「お?おお?おおお?」
「どんどん、どんどん後ろへ引っ張られますよ」
もうすでに自力では立っていられないくらいの体勢になっていて全体重の殆どがこっちに掛かっているはずなのにあんまり負担は感じない、軽いなこいつ。
少々名残が惜しいが体勢を戻してやって椅子に座らせる。
それから手が開かなくなる暗示も試してみたがこちらもしっかりと暗示にかかっているように見える。
「そろそろ良い時間だし次ので最後にしようか」
「じゃあじゃあ、次はもっと催眠術っぽいのがいいです、ほらテレビとかでやってるような、あなたは猫ですとか、鳥になって飛んでみましょうとか、ああいうの」
部員一号からもリクエストが来たので俺的本命を試してみたいと思う。これまでの様子を見る限りではしっかり暗示にかかっているように見えてるしいけるんじゃないかな。
健全な男子高校生が女の子(しかも可愛い)に催眠術を掛けれるような状況になったら一度は必ず妄想するんじゃないかっていうアレだな。
一応、あまり過激なことやろうと思ったら催眠術に掛かったフリをされていた場合に俺の居場所が無くなりそうなんで、最悪あとで笑って済ませられそうにマイルドに抑えるつもりだ。
「それでは、椅子にゆったりと座ってください。目を瞑ってゆっくりと息を吐いてください、そしたらゆっくりと息を吸って~、吐いて~、自分の呼吸に集中してくださいね。だんだんと体から力を抜いてもっともっと呼吸に集中してください。吸って~、吐いて~」
出来る限り伝わりやすいようにゆっくり丁寧に優しくを心掛けて話しかけ、十分にリラックスできたかな?ってところを見計らって言葉を続ける。
「今、あなたは人を好きになる気持ちが抑えられなくっています。特に目の前にいる人のことが堪らなく好きになってしまいます。その人の目を見つめ続けると気持ちはどんどんと高まっていきます。嬉しい、楽しい、気持ちいい、温かくなる、幸せな気持ちです」
今、俺は盛大な自爆をかましているんじゃないだろうかと自覚するが、ここまで口に出してしまってはもう後には退けんわな。
「これから三つ数えて目を開けると目の前の人が好きで好きで堪らなくなります、気持ちを抑える必要はありません、あなたなりの方法でその気持ちを表してみましょう。い~ち、に~い、さ~ん、ハイッ」
三と数えたところでパンっと軽く手を打つと目を開けた佳乃と目が合う。
さっきまで散々とこっぱずかしいことを言っていた手前、顔が赤くなりそうなのをなんとか我慢する。実際に出来ているかどうかは知らん。
目を開けた佳乃はこちらの目をじっと見つめ続けている。表情を消していると顔の造作が際立ってこいつホントに可愛いなと思う。俺としてはいつもの残念なこいつの方が親しみやすくて好みだが。
言葉も無くこちらの目を見つめてきているがこいつの内心はどうなっているんだろうか、男子の欲望全開具合にドン引きしているのかもしれない、明日から部室に来なくなったらどうしようか、その時は謝り倒してなんとか部だけは引き継いでもらえるよう頼み込むしかないな。
「今はどんな気持ちでしょうか、嬉しいですか、楽しいですか、幸せな気持ちが溢れてきます」
毒を食らわば皿までの精神で最後まで言葉を続けることにする。気持ち悪がられたらなんとか笑い話になるように全力で努力しよう。
「さあ、あなたなりにその気持ちを表現してみましょう」
俺がそう言うと向かい合わせで座っていた状況からすっと立ち上がりこちら側へと腰を下ろしてくる。
あまりに躊躇いの無い動きに全く反応できなかった。
今の体勢を説明すると椅子に座っている俺の上に佳乃が座っている。俺の膝オン部員一号。そのうえでこちらに凭れ掛かって体重を預けてきている。
何だこれ、やべえ!? 何がやばいか全くわからんがとにかくやばい。柔らかさとか温かさがもろに伝わってきて俺の何かが切れそう。
慌てて暗示を解くための言葉を出す。この状態で暗示が解けたらビンタの一つや二つどころでなく食らいそうだがそんなことはどうでもいい。
「三つ数えたらあなたはすっぱり元の気持ちに戻ります! イチニイサンハイッ!」
上を向いて叫ぶようになんとか言葉をひねり出す。とてもじゃないが顔を合わせられそうにないがそうもいかないので覚悟を決めてそうっと下に顔を向ける。
すぐにでも飛び上がってビンタなりグーパンなり飛んでくるかと思ったが一向に膝に掛かる重さが軽くなる気配は無い。
目が合うといつもの五割増しくらいのドヤ顔の口が開く。
「先輩も年頃の男子ですねえ、まさか私にこんな催眠を掛けようなんて、そんなに私のこと好きでした?」
「うっせ、うっせ、こういのは男子の浪漫なんだよ。ていうか催眠解けたならさっさとどかんか、重いんだよ」
「あ、先輩、女子に向かって重いとか禁句ですよ、傷つきました、この傷を治すには杏屋の白玉パフェを奢って貰わないと治りませんね」
「はいはい、何でも好きなもん奢ってやるわ。ていうか、いつまでこの体勢のままでいるつもりだよ、お前恥ずかしくないの?」
「仕方ないですー、私は催眠術を掛けられてましたもんねー、先輩のせいですー」
膝に掛かる重みが消えるのを残念に思う気持ちを表に出さない様に気を付け立ち上がり膝を払う。
滅茶苦茶気まずくなるかと思ったが佳乃が冗談で混ぜっ返してくれたおかげでいつもの文学部の空間だな。
ていうか、こっちは思いっきり気にしてるんだがアイツの方は全然気にしてないんだろうか。
取りあえず学校の近所の甘味で許されるなら安いものだと思うことにしておこうか。
「うっし、杏屋寄っていくんだろ? 施錠しちまうからさっさと荷物もって出ておけな」
部室の入口で部員一号が出てくるのを待つ。
すれ違いざまにまたもやニヤリと笑いかけてくる。まだ何ぞや言うつもりか?こいつは
「先輩知ってました? 催眠術って相手にその気持ちが無いと掛からないらしいですよ?」
お読みいただき、ありがとうございます。