人生は不条理、矛盾。不公正、不正に満ちている。でも、人は生ききる、生き抜ける、それが人生の真実の姿なのさ。
人生は不条理、矛盾。不公正、不正に満ちている。
そして
それが止むことはおそらく永遠にありえないだろう。
そもそもこの人生を
いや、
この世界を
正義と平和と博愛と平等と公正とが
支配するべきものであると考えること自体が
間違っているのだ。
拗ねた言い方で悪いが
この世に悪が消え去る日なんか来るはずないじゃないか。
とでもいうしかあるまい。
「浜の真砂は尽きるとも世に盗人の種は尽きまじ」
石川五右衛門の辞世の歌の通りであろう。
だがもっと掘り下げてみたらどうだろうか?
なぜ人は生まれながらに
大金持ちで高貴な?家に生まれる子もいれば
或いは、
貧乏で、両親はアル中で虐待の家に生まれる子もいれば
このように生まれながらに
既に不公平なのだろうか?
「人間は生まれながらの平等であるという」、
美辞麗句はむなしくはないか?
私は思う、
人間は生まれながらに、不平等であると。
そして
歩む人生も、
100人100様であり、
一つとして同じ人生なんてありえないと。
春の日の和毛をなぶるような人生もあるだろうし。
又
秋霜烈日、
争闘の人生行路もあるだろう。
だが
もしも、
こう考えたらどうだろうか?
もしも、みんな同じに生まれてみんな同じ人生を歩むとしたら?
そんなことありえないわけだし、
人生をどう考えるかにすべてはかかっているという大前提を忘れているわけだし、
人生がみんな同じ何んてそれこそ不条理の極みだし、
貧乏人もいれば大金持ちもいる、
みんな違ってこその人生行路だろう。
どうせ、
人生なんてひと時の夢物語ですよ。
こういってはいけないかもしれないが
人生なんて大したものじゃあありませんよ。
太く短く華麗に生きるもよし、
鳴かず飛ばずで100歳の長寿を保つもよしでしょう?
でもその人生、
ある意味では、すべてイコールですよ。
良い人生も悪い人生もありません。
人生はそれ自体で、
どうであれ
生きることでそれだけでいいんじゃあありませんか?
古代の大王の古墳がそびえたっていますよね?
それこそその当時は
何万の人民の上に君臨した大王だったのです。
その大王の墓が今では、
野ネズミとミミズの棲家でしかないのです。
人間死ねばイコールです。
王様も金持ちも権力者も絶世の美女も、極悪人も。大聖人も
生きてる間だけのことです。
死ねばそれは消えるのです。
生きてる間だけの
一芝居です、
人間だれも人生とは
それぞれの力量に応じた
一芝居なのですよ。
うまく演じ切るか
ずっこけて赤っ恥をかくか。
まあいずれにしても、
人生舞台も
死をもって第一幕は一先ず、終わりです。
第2幕は
いつ上がりますか?
さて第2幕はどう演じましょうかね?
今度はどんな人生演目をあなたは選びますか?
どんな役をしたいですか?
いずれにしても、
演じきったもん勝ちですよ。
ここは一つ
法に触れない限りの
大芝居を売ってみたらいかがでしょうか?
まあ、極論すれば
別に法を犯しても、
それがその人の人生演目だったということでしかないのでしょうけどね?
それにしても、
人生ってなぜ、かくも異なるのでしょうか?
たとえばマザーテレサのような人生もあれば
ロシアの100人の女性を殺した連続殺人鬼の人生もありますね。
これほど違うのがまさに人生の驚異ですが
さてあなたはどちらの人生を選びますか?
それともどちらも選びませんか。
ですがこの両極端の人生も、
磁石のプラスとマイナスのようなものです。
方角が違うだけで本質は同じなのですね。
それが人生の不可思議でもありますし、
プラスマイナスゼロでもあるわけですね。
100人も殺してしまった連続殺人鬼の人生も、
じつはほんの少しのボタンのかけ違いかもしれないのですよ。
そのパワーを
聖なるものに向けるような
啓示体験があったらば、
彼は大聖人になっていたかもしれないのですから。
彼に神の声が挑まなかったということもまた彼の宿運でもあったのでしょうけどね。
或いはとんでもない邪神の声を聴いてしまったのかもしれませんね?
いずれにしても
人生は千差万別です。
そして人生をどう方向づけるかは
ひとえにあなた自身にかかっていると言えるのです。
それというのも、
どこで誰の子に生まれたかはあなたの責任ではありませんが、
その後どう生きるかは
あなたが
決めていいのですからね。
人生は一幕の舞台
あなたはうまく演じなさい。
人生は死に至る徒競争。
呼吸を整えて走り切りなさい、
人生は常に選択。
あなたが心の声にしたがってよきものを選びなさい、
そうして
やがて人生にも
終りが来るでしょう。
その時
あなたは
後悔しないように
選ぶのですよ。
私はこれまで生きてきた中で、天の下に不条理と不正と不公平が満ち満ちていることをどれほど
見聞きし、そして知らされてきたことだろうか。
たとえば、、、、、。
心清く、誠実なクリスチャンであった方が晩年、悪病に侵され
激痛にさいなまれて、狂い死にしたことも知っている。
何の罪もない幼女が実母に橋から深夜突き落とされて殺されたことも知っている。
熱愛の末結ばれた夫婦に、重度の障害児が生まれて、
泥沼の争いのはて離婚したことも知っている。
たまたま通りかかったばかりに、通り魔にめったざしに刺されて惨殺された
無辜の人も知っている。
濡れ衣を着せられて、無実の罪で20年も服役させられて、
再審で無罪放免になった方も知っている。
善人の鏡みたいな人が、なぜかいつも、病気や、貧困や、差別に苛まれているのも知っている。
悪人の癖に羽振りが良くて、外車を乗り回し、セレブマンションに暮らしているのも知っている。
善人だから
徳があるから
神を信じているから、、、
病気にならないか?
貧困にならずに済むか?
通り魔に殺されずにすむか?
といえば、、
そうではないということは誰でもお分かりでしょう。
善人だって
聖人だって
自身が何の罪もなくても
業病で狂い死にすることだってあるでしょう。
貧困にあえぐ人生もあるでしょう。
では?
人間において
善なるものとは
聖なるものとは
何の意味があるというのでしょうか?
いっそ悪の塊と化して
悪行の限りを尽くして悪を極めてその挙句に、
死刑になったって
それでいいじゃないか?
という連続通り魔殺人の犯人のような主張にもなりかねませんよね?
確かに人生とは
一面において「空」であり、
本来、人生というものに良いも悪いもないのですよ。
狂った父親に日本刀で両腕を切断された少女もいます、
あるいは「大草原の小さな家」のあの両親のように、素晴らしい両親もいます。
この小説はまんざらフィクションではなくて、実話に近い?モノだそうですよね?
この差はなんでしょうか?
シングルマザーでホステスをして幼児二人を育てていたのに、
ある日その二人をアパートに置いたまま2か月も帰ってこずに
餓死させた若い母親もいましたね。
こんな母親のもとに生まれた悪い星を恨めとでもいうのでしょうか?
この幼児になんの罪もないでしょう。
また人間社会というものは
欲得の修羅場であり
そこには深い闇があり
嫉妬と、陰口と、恨みと、憎悪と、誹謗が渦巻いているものなのです。
きれいごとで済まないのが
この人間社会なのですね。
したがって
そこにはいつだって
不正が
賄賂が
いじめが
不公平が
隠然と存在しているのです。
それが人間社会の本質なのです。
では?
いったい私たちは
どう生きたらいいとでもいうのでしょうか?
まあ、早い話、、、
うまく立ち回りそつなく抜け目なく、臨機応変に生きるのが大正解ではあるでしょうが。
でも
そうした、うまく、ずるがしこく、生きた人生もしょせんは「空」です。
善に生きようとも
悪賢く生きようとも
その両者とも
「空」であることにおいてイコールです。
そうです。
人生とは
夢であり
幻想でしかないからです。
その夢は(悪夢は?)
やがて覚めるときがくるでしょう。
人生とは魂が見ている夢にすぎません。
魂はこの薄汚れた?人間界で
魂を磨くためにしばしの夢修行?をしているということです。
そこでは原則として何をしようと自由です。
猟奇殺人犯になって、70人の女性を殺しても自由?ですし、
(実際そういう事件がロシアであったそうですね)
マザーテレサのようにインドの貧困児童を数千人救済?するのも自由ですし、
魂は己の本心に従って
あるいは悪をなし
あるいは善を成すということでしかありませんね?
その結果。
現世では死刑になるか
ノーベル平和賞を受賞するか、
その差ですね。
でも、、、、
極論すると
その両者とも「空」です。
ただそういうことが人生夢の中で
夢見られた、、、?
ということでしかないからです。
じゃあ。いったいどう生きたらいいのさ?
それはですね。
究極の答えを提示しましょうか?
すべては必然であり
あなたはその必然コースを
知らずたどっているに過ぎない。ということです。
人生とは終わってみればそういうことだったのです。
あなたにもやがて人生の終わりが来るでしょう。
その時、、
あなたは
悟るでしょう。
「ああ、こんな人生送るのは不本意だとずっと思ってきたけど、
今死に臨んでみて、やっとこれこそがおれの人生でしかなかったのだと分かったよ」とね。
人生とはそんな物なんです。
あなたは「神の操り人形」に過ぎなかったのですから。
自分で操っていると信じ切っていたこの人生も
終わってみれば
神の操り糸に
ただ
舞わされていただけだったと、、、、。
なぜ?
なぜって
人は神によって生かされているだけの存在だからです。
「俺は自分で自力で活きているぞ」と
いくら力んでみても
あっけなくある日死んでしまうのはそういうわけだからです。
自分の力なんかで生きられるもんですか。
それは幻想です。
人はただ、、生きるべき間は生かされてるだけです。
人は運命によってあるいは鬼の所業でいかされ?
あるいは仏の菩提行で
生かされる、、
とでも、いうしかないでしょうね。
そうなるにはそうなる因果があったからそうなった。
しょせん人は
運命の操り人形でしかない存在だからです。
さあ、
ですから
ここは
人生を達観してですね。
生きるという即身仏行を
していると観じて
摩迦止観を
凝らして
あなたの人生を操る
神の操り糸を、、、、
あるいは?
悪魔の操り糸を
しっかりと見極めることでしょうよ。
それしか
それだけが
人生の正しい?生き方でしょうからね。
あの名作「青い鳥」(メーテルリンク)にこんな場面がある。
チルチルとミチルがいろんな国をさまようのだが、、
「まだ生まれてこない子供の国」にいるとき、
一人の少年が近づいてくる、
「僕は弟だよ、来年生まれるんだ」
という
それを聞いたチルチル、ミチルは
その少年を抱きしめる。
少年はこういう
「僕に優しくしてくれる?」
「もちろんだよ」と答えると、
少年は急に悲しい顔になってこういった、
「でも僕は三つの病気を持っていかなくちゃならないんだ。
そして、、その病気のために生まれてすぐに死んじゃうのさ」
「じゃあ生まれないほうがいいのに」とチルチルが言うと
少年は
「拒めないんだ」というのだった。
そうです、、、、、。
人生とはこういうことであるのでしょう。
誰もその運命を拒めない、、。
それが人生の真相なのでしょうね。
人はだから敬虔に。「生きるべき時を生ききる」、、
それしかないのだと
私は
今は
そう
思っているのです。
『白露のしずくに頬をなでられて、夢、仮の世の夢ぞ醒めける』