その2――勇者アリシアはどうやら永き眠りにつくらしい ☆
『これは要らぬ世話かも知れぬが。勇者アリシアよ――真っ昼間から自棄酒とはあまり感心しないな』
『うっさい! そんなん私の勝手だろ! 今日で私が何回! 何回、男に振られたと思ってんだ! そりゃあ自棄酒ぐらいするわ、こんなん!』
『クククッ! 随分と言葉遣いが荒れているな。いいのか――それでは男が逃げてしまうかも知れないぞ?』
『ほっとけ! どうせ私なんか……いくら取り繕ったって、結局は女らしさのオの字もない男女なんだよ。残念な女なんだよ。だからどうせ、彼氏だって出来ないんだ……』
今日も今日とてサクッと男に振られた私は、傷心を引き摺りながら自宅へ戻り、直ぐ様、お酒とおつまみを持って自分の部屋へと引きこもった。
自分があまりにも惨め過ぎて。こんな惨めな自分を誰かに見られるのが嫌で――いまはもう、とにかく誰とも顔を合わせたくない。
こういう時はナッツ系の乾き物をポリポリと食べつつ、果汁割りのお酒をキューっと呻るに限る。これ最強。テーブルの上には他にも、ビーフジャーキーやらイカの燻製やら野菜スティックやらが顔を並べてるけど、いまの気分的にはナッツ系のおつまみが最適だった。
カーテンを閉め切った薄暗い室内で、これを無心になってポリポリと食べてると、なんとなく心が落ち着くから。
『やれやれ。酔っているとは言え、そうやって、あまり自分を卑下するものではないぞ。お前は少なくとも、そこらの凡百な人間共よりは、遥かに見所があると我輩は思っているのだからな』
『――はあ? あれれー聞き間違いかなあ……なんかあ、アンタが珍しく、私を誉めていらっしゃる? ははあ、さてはアンタ――私に惚れてるな? うう……魔王の分際で勇者に懸想を抱くなど、まことに不届き千万である! 天罰を食らうが良いぞ!』
天罰――コップに入ったお酒を、自分の影に注ぐだけの、簡単なお仕事です。はい。
『こ、こら! 止めんか、この酔っ払いめ! 酒を粗末に扱うでない! こんなことをしても、我輩には無意味だぞ!』
『あははーっ! 魔王様が焦っていらっしゃるわ! おもしろーい!』
私はテーブルに突っ伏して、声を押し殺しながら、肩を震わせて笑った。
ふと冷静に考えれば、何がそんなに面白かったのか、よく判らないけど、それでも私はとにかく笑った。いまは無性に笑っていたかった。笑うことで嫌なことを忘れられそうな気がするから。だからきっと、その為の理由はなんでも良いのだ。
それなのに――この馬鹿ときたら。
『――なあアリシアよ。いい加減、実りもしない恋なんぞに執心するのは止めて、ここはいっそのこと、我輩の手助けをしてみる気はないか? 我輩の魂が収まるに相応しい器、新たな依代となる肉体を持った人間を探し出すのだ。そうすれば、我輩が――』
『断る! なんで私がアンタの手助けをしなきゃいけないんだ? それも、アンタが復活する為の手助けを。と言うか、自分を倒した相手にそういうこと頼むかね、普通?』
私はテーブルからむくりと顔を上げ、胡乱な目付きで床の影を睨み付けた。
まったく。こいつは空気も読まんと、ふざけたことを抜かしやがって。人が折角と嫌なことを忘れて、無理矢理、気分を盛り上げようとしてたってのに。お陰様でテンションはダダ下がりな上、酔いも醒めてきちゃったじゃないか。
『――フン! ならばどうする? これから先もこのまま、男に告白しては振られる――という茶番を何度も繰り返し、その度にこんな惨めな思いをするつもりか?』
『ちゃ、茶番とか言うなし! 私だって別に、好きで男に振られてるわけじゃあ……って、私が何度も振られること前提で話しすんな! それじゃあまるで、私が一生、男に振られ続けるみたいじゃないか!』
『ああ、このままだと確実にそうなるな。お前は一生、男に振られ続けるだろう。それと――お前がどうあろうと関係なく、我輩からすれば、あんなものは茶番以外の何物でもないのだ。よく覚えておくことだな』
――本当に嫌な奴だな、こいつは!
そりゃあ、魔王のアンタからしたら、恋に恋して恋に恋い焦がれる乙女の行動なんて、一切合財、茶番にしか見えないでしょうよ。と言うか、私が誰に振られようが、誰かと付き合うことになろうが、アンタには一切関係ないんだから、余計な口を挟まないでくれないかなあ。
――ああもう!
なんだか凄くイライラしてきた。どうしてこんな、無性にイライラするんだろ。
なんてね。私がイライラしちゃう原因は明らかだわ。
何もかも全部、フェレスの馬鹿が悪いの。
この野郎、私をおちょくりながらも、その実、的確に私の痛いところを突いてきやがるんだ。
このままでは一生、男に振られ続ける――そんなのはフェレスに言われるまでもなく、私自身、既にうっすらとは予感してたことだった。これまで男に散々振られまくった経験が、私にどうしようもなく、そんな悲し過ぎる未来を暗示させてしまうからだ。
でも、だからと言って、そんな悲し過ぎる未来など、到底、受け入れられるわけがない。
もしも、その未来を受け入れてしまったら、それはつまり――これまでの私を否定することに繋がってしまう。そんなのあまりにも悲し過ぎる。本当に私が惨め過ぎるもの。
元来、男勝りな性格をしていた私だけど、少しでも男ウケを良くしようと、その性格を無理矢理にでも捩じ伏せて、女らしく振る舞うようにこれまで努めてきた。
ちょっと前まではまったくと頓着がなかった、化粧のやり方やら髪や肌の手入れの仕方も、お母さんや女友達に教えて貰って必死に覚えてきた。
勿論、スタイルにだって気を配ってきた。食事の量は大食い女とか言われた昔よりはかなり減らした方だし、健康的な体を作る為に毎朝のジョギングは一度たりとも欠かさないできた。
世界を救ってからの一年間。そうやって日々、彼氏が出来るのを夢見ながら、少しでも女らしくなろうと、少しでも自身の女を磨こうと、私はコツコツと努力を積み重ねてきたんだ。
だから――私のそんな努力が全部、無意味だったなんて思いたくない。決して認めたくない。簡単に認められるもんか、こんなもん。チクショウ、なんだか目頭が熱くなってきやがった。
――ああ嫌だ!
このまま恋愛のレの字も知らずに生きていくのなんて絶対に嫌だ。
こんなんじゃあ――かつて、世界を救った英雄と謳われたアリシア女史ですが、昨夜未明に自宅で密かに孤独死していたことが近隣住民の通報により判明しました――とか、私の末路がそんな感じになっちゃうじゃないか。
なんだよそれ。そんなの良い笑い者だよ。クソッタレめ。
『ふむ……泣いているのか? お前にしては珍しく、酷く落ち込んでいるようだな』
『うっさい! 誰の所為だ馬鹿! 誰の! この暴言魔王め!』
私は目尻から零れ落ちる涙を両手で必死になって拭った。
本当は子供みたいに大声で泣き喚きたい。でも、私は懸命にその衝動を抑え込もうとした。ここでもしも、その衝動を許してしまったら――多分、私はもう二度と立ち直れないかも知れないからだ。ここで泣くということはすなわち、自分自身の敗北を認めるのに他ならないからだ。
だから、早く泣き止めよ。泣いたら駄目なんだよ。しっかりしろ、アリシア。
『やれやれ。我輩としたことが、少々加減を誤ってしまったか。よし――泣かせてしまった、お詫びと言ってはなんだが、ここはひとつ、我輩がお前にありがたい助言をくれてやろうではないか!』
『…………はっ?』
一瞬だけ時が止まったような気がした。
同時に私の涙もピタリと止まってしまった。
こいつ、いまなんて言った。助言――こいつ、いま助言って言ったのか。
おいおい。魔王が勇者に助言って。それは何かの冗談なのかな。いや。冗談にしたって笑えないけど。
そもそも、こいつは自分の立場が判ってるのかな。
こいつが魔族を統べる王だったのは昔の話。いまとなっては、私の影に取り憑く、ただの死に損ないだ。それなのにどうして、こいつはこうも私に対して上から目線なんだよ。
この野郎、地面にへばり付く影なんだから、むしろ、下から目線で私を見上げろよ。そんで私のことをちょっとは敬え。話の語尾には必ず、アリシア様万歳を付けろ。
『さて、まずは現状の再確認といこう。お前はいま、どうやったら男が出来るのか判らず、完全に行き詰まりを感じている状態――それに間違いはないか?』
『……だったら、なんだよ』
『まあ、そう腐らずに我輩の言葉をよく聞け。いいか。行き詰まりとは大抵の場合、視野が狭くなっている時に起こりうる。何故ならば、視野が狭くなっている分、それだけ多様な選択肢の多くを見過ごしているからだ。つまりは――くだらぬことに拘り過ぎて、段々と身動きが取れなくなっている状態――ということだな。故に結果として行き詰まっていくのだ。ならば、話は簡単ではないか。その狭くなった視野を広げて、そこから得た、新たな選択肢をみずからに与えてやれば良い。そうすれば――おのずと現状の行き詰まりも解消されるであろう』
――ははっ! こやつめ、抜かしおる!
何が――解消されるであろうだ。この馬鹿。また随分と偉そうに語ってくれちゃって。アンタ何、人生相談の先生か何かなの。私は迷える子羊とかそんなんなの。
と言うか、なんか長々とご高説を垂れて貰ったけど、こいつが何を言ってるのか、私にはさっぱりと判らないんだけど。完全に理解不能で頭の中はクエスチョンマークでいっぱいなんだけど。
でも、あれだな。ここで素直に判らないとか言ったら、こいつのことだ、私のことを徹底的に馬鹿扱いしてくるに違いない。それはなんと言うか、凄く屈辱的だ。そんな暴挙は絶対に許してはいけない。
『ふ、ふーん……な、なるほどねえ。そういうことかあ。うんうん。アンタの言いたいこと、なんとなく判るよ。ホント、行き詰まってる時って、そんな感じだよねえ』
『お前……我輩の言っていることをまるで理解していないな? そうであろう?』
――クソ! 誤魔化しきれなかったか!
あれでも結構、頑張ったつもりなのに。
――フン!
私の必死な虚勢をこうも容易く見破るとはなかなかやるではないか。
流石は我が宿敵――魔王フェレスである。
ならば、ここは貴様のその慧眼っぷりに免じて、素直に白旗を挙げてやろう。
精々、私に感謝するが良いぞ。
『――ごめんなさい。本当はさっぱり判りません。要するにどういうことなの?』
『お前は……本当に察しが悪いと言うか、相変わらず、肝心なところで馬鹿だな!』
『うっさい! ほっとけ! どうせ私は馬鹿だよ!』
なんだよ。私がちょっと下手に出れば、調子に乗りやがって。案の定、私のことを馬鹿にしくさってからに。
そもそもの話、いまのは完全にこいつの言い方が悪い。
難しい話をされたら即行で眠くなったり、複雑な計算を前にすると直ぐに目が回ったり、文字がびっしりの本を読むと冒頭の時点で頭が痺れてきたりする、そんな私に――小難しいことを言ったって判るわけがないだろう。ちょっとは考えてものを言えよな、まったく。
うわ……なんか自分で言ってて悲しくなってきた。
『はあ……よく考えてみれば、我輩と死闘を繰り広げた時も、お前はただ、無鉄砲に真っ直ぐ突っ込んでくるだけの、知略や戦略というものが皆無の単純馬鹿だったな。あれから外見は大きく変わったものの……おつむの悪さだけは未だ健在であったか』
『あーそうですかそうですか。だったら、その単純馬鹿な私にも判るよう、言葉を噛み砕いて、いま一度、わたくしに優しくご教授願えませんかねえ? とっても賢い、魔王フェレスさん?』
『クククッ! 随分と調子が戻ってきたようだな。よかろう。それならば、単純馬鹿なお前でも理解出来るよう、今度はもっと分かり易くて話してやろう。いいか。勇者アリシアよ、単刀直入に訊くぞ――お前にとっての男とは、この町にいる男だけを指すのか?』
『――はあ? なんだよそれ。さっきのよりも意味不明なんだけど』
『思考放棄するな。よく考えろ。そして、我が身を改めて見直してみるのだ。そうすれば、あっさりと答えに辿り着けるだろう』
腹立つなあ。こいつ、本当に偉そうで腹立つなあ。
大体、この町に住んでる以上、私にとっての男と言えば、この町の男しかいないわけで。そんな当たり前のことを改めて訊かれても返答に困るんだけど。
それに我が身を見直せってのもよく判らない。なんだ。いままで私がしてた努力は間違ってたとか、そういうことが言いたいのかな、こいつは。
おい。なんだよそれ。凄くムカつくんだけど。
『ふむ。ここまで言っても、まだ判らんか…………筋金入りの馬鹿だな』
『おい! いま最後、なんつった! ちゃんと聞こえてるからな!』
『聞こえるように言ったのだから当たり前だ、この馬鹿者め! まったく! いいか、勇者アリシアよ。発想を逆転させるのだ。固定観念に囚われるな。みずからのしがらみを捨てて、もう一度、よく考えてみろ。我輩が出せるヒントはここまでだ』
――発想を逆転させろだって?
どういうことだよ、それは。更に難しくなってるじゃないか。
なんだよもう。ヒントなんて要らないから、単純に直球の答えをくれよ。どうしてこう、賢い振りしてる奴ってのは話が回りくどいんだ。性格が悪過ぎだろ。
でも、流石に今回ばかりはさっきみたいに、あっさりと白旗を挙げるわけにもいかないな。
今度こそ、こいつに何を言われるか、判ったもんじゃないし。
とは言え、発想を逆転させろと言われても、一体、何を逆転させれば良いんだ。
まさか――男にモテないんだから、いっそのこと、女に走れば良いってか。
おいおい。それは冗談じゃないって言うか、最早、洒落になってないんだけど。私にそんな趣味は断じてないし。その証拠として、私に言い寄ってくる女には全員、丁重にお断りを入れてきたし。
真面目に……真面目に考えよう。なんかいま、盛大に墓穴を掘ったような気がするし。
そうだ。こいつの言った言葉をよく思い出してみよう。そこに何か、ヒントがあるような気がする。
お前にとっての男とは、この町にいる男だけを指すのか?――確かにこいつは私にそう尋ねてきた。私は最初、そんなものは当然だと、これを一蹴してしまったけど。仮にその当然を逆転させたら、どうなるだろう。
うん。まあ。そりゃあね、世界は広いんだし、余所の町やら国にも男は存在するわけだから、この町の男が全てとは限らないよ。でも、私がこの町に住んでる以上、男と言えば――
『……あっ! そうか! 固定観念って、そういうこと……』
『ほう。その様子だと、ようやく我輩の言葉が理解出来たのか?』
『いや、ちょっと待って! あともうちょい! あともうちょいで何か掴めそうなんだ!』
そうだよ。私はこれでも、かつては勇者をしてたことがあるんだ。かつては世界中を旅して回ったことがあるんだ。
だから、私はこの町だけが世界の全てじゃないことを知ってる。この町の男だけが全てじゃないことを知ってる。それなのに私はこれまで何故、この町の男だけに敢えて固執してたんだ。
その答えは簡単だ――私がこの町に住んでるから。
だったら、その前提を覆してやれば。
――ああクソ!
私は本当に馬鹿だ。どうしてこれまで、こんな単純なことに気付けなかったんだろう。
世の中には星の数ほど男がいて、その中にはもしかしたら、私のことを良いと言ってくれる男がいるかも知れない――私は以前にそんなことを思った筈だ。でも、そこまで考えておきながら、私はあと一歩、考えが足らなかった。本当にあと一歩だったのに。
『――ありがとう。私、初めてアンタに感謝するよ。アンタのお陰で私はようやく目が覚めた。私はようやく、新しい道を見付けることが出来たよ』
『クククッ! 何、礼には及ばんさ。それで――既に判りきったことを訊くのは、我輩の理に反するのだが、是非ともお前の口から聞きたいので尋ねるぞ。お前はこれから、どうするつもりだ?』
『ああ――私は早速と明日、この町を離れて、旅へ出ることにするよ』
『――んんっ? いやちょっと待て! なんの話だそれは? お、お前は一体、何を言っているのだ?』
『この町の男共はもう駄目だよ。私の魅力をちっとも判っちゃくれない。だから、私は旅へ出ることに決めたんだ。この広い世界の全てを探せば多分、どこかにきっと、私の魅力に気付いてくれる男がいる筈だと思うから! 恐らく!』
なんだろう。確信を持って、そうだと言い切れないところが、モテない女の悲しい習性のような気がする。なんだよ多分って。なんだよ恐らくって。
まあ、それはともかくとして。本当にフェレスの奴には感謝だな。こいつのしてくれた助言が、暗雲が立ち込めていた私の未来に、一条の光を差してくれたんだから。もっとも、その光はまだ、酷くか細いものだけど。でも、確かな希望であることには間違いないな。
なんだ。いつも、ただ無闇に偉ぶってるだけの奴かと思ってたけど、こいつもたまには役に立つじゃないか。
『な、なるほど。少々取り乱してしまったが、お前の理屈はよく判った。だが、お前はひとつ、重大なことを忘れてはいないか? お前はこれまで、男からなんと言われて振られてきた? お前が振られる、そもそもの原因はなんだ? そこのところをよく思い出してみるがいい』
『それは……私が世界を救った英雄だから。だから、男共はみんな、釣り合いが取れないだの、住んでる世界が違い過ぎるだの、そんな屁理屈を口にして、私を……』
『そうだ。つまり、凡人共には荷が重過ぎるであろう、お前のその肩書きがある以上、例え、世界中の男にアプローチを仕掛けたところで結果は――』
『だったら、そのしがらみを捨てれば良い――そういうことだろ? 大丈夫……私にちょっと考えがあるんだ』
そう言って私はスカートの裾を捲り上げると、太股のレッグシースから一振りの短剣を引き抜いた。
これは護身用として――あるいはお守り代わりとして、世界が平和になったいまでも、私がいつも持ち歩いてる短剣だ。
勿論、こんなものを常に携帯してることが男共に知られれば、酷くドン引きされるだろうから、普段は長いスカートを穿いて隠してるけど。
『おい……突然、そんな物騒な物を取り出して何をする気だ?』
『こいつはね、極普通のなんでもない短剣なんだけどさ、私にとってはとても特別な代物なんだよ。こいつは――私が勇者として旅へ出る日、生まれて初めて買った最初の武器なんだ。まあ……当時の私はお金がなかったから、こんな安物の短剣しか買えなかったんだけどさ』
『――だから、なんだと言うのだ? 話がまるで見えてこないのだが』
『話は最後まで聞けって。つまり、こいつは――私の旅の始まりから終いまでを全部知ってるのさ。そして、その途中にあった、私のあらゆる苦悩も、仲間達と分かち合った、喜びも悲しみも怒りさえも、こいつは全部知ってるんだ。だから、私が死ぬとしたら……私の最期はこいつの手にかかって幕を閉じたい』
私はテーブルの椅子から立ち上がり、部屋の隅にある姿見の前に立つと、手にした短剣を首筋にそっと宛がった。
いまから自分がすることを思うと酷く緊張する。呼吸は乱れるし。鼓動も激しく高鳴ってしまう。でも、これは大事なこと。いまさらは後に引けない。私はいまから死ぬ。死ななければいけないんだ。
『い、いや待て! お前の考えがまるで判らん! とにかく早まった真似はよせ! それでは我輩がなんの為に……なんの為に、こんな無様な醜態を晒してまで、生き長らえようとしたのか、判らなくなるではないか!』
『何もかも遅いよ。もう決めたことなんだ。アンタが何を言おうと、勇者アリシアはここで死ぬんだ!』
私は固く目を瞑ると、首筋に宛がった短剣を、意を決して思いっきり振り抜いた。
これまで男に振られ続けた嫌な記憶を全て振り払うように。
みずからのしがらみを全て切り捨てるように。
とても嫌な音がした。それは耳を塞ぎたくなるほどの不快な音だった。私にはそれがまるで断末魔の叫びのように聞こえた。
途端、首筋に冷やりとした感覚が襲い、私は固く閉ざした瞼をゆっくりと開いて、ふと床に目を向けた。
すると、そこには――金色に輝く、勇者アリシアの残骸が無惨にも横たわっていて、私は急激に切なさが込み上げてきた。
でも、これで良い。これで良かったんだ。名残惜しい気持ちがまったくないと言えば、嘘になってしまうけど、いまはそれ以上にサッパリとした気持ちで胸がいっぱいだから。
だから――さようなら、勇者アリシア。いまは安らかに眠れよ。
『――おい。さっきから床を見つめて感慨深そうにしているが、これは一体、どういうことなのだ? 我輩にも判るよう説明しろ! 死ぬだのなんだの言っておいて、お前はただ――髪を切り落としただけではないか!』
『はあ? 何言ってんのアンタ! 髪は女の命だろ! それを切り落とすってことはつまり、死ぬのと同じこと! アンタ、魔王のクセして、こんなことも知らないのか?』
『そんなこと我輩が知るか! このうつけ者が! まったく……大体、こんなことをして、なんの意味があると言うのだ!』
『これは大事な儀式なんだよ。勇者アリシアが死んで、私が新しく生まれ変わる為の』
『……生まれ変わるだと? 何を馬鹿なことを!』
私はフェレスの言葉を無視して、スッキリとした後ろ髪をそっと撫でた。
そして、ちょっぴり後悔した。
なんかノリと勢いに任せて、バッサリとやっちゃったけど、これ絶対、後ろ髪が不揃いでみっともないことになってるよね。いや。あんな無茶な切り方をしたんだから当然なんだけど。
ああ。これは不味いなあ。あとで友達に頼んで綺麗に切り揃えて貰わなくては。これから旅へ出るってのに、こんな残念な髪型じゃあ、恥ずかしくて仕方ないもの。男が逃げてしまうもの。
と言うか、さっきからフェレスの馬鹿が煩いんだけど。なんだよもう。人が折角と新しく生まれ変わった自分を見て、感動に浸ってるところだってのに。少しは空気を読んで静かにしろよ。
それをやれ、さっぱり判らんだの。やれ、理解しかねるだの。やれ、きちんと説明しろだの。アンタはちょっと前までの私か。少しは自分の頭で考えろよ。
まったく。世話が焼ける奴だな。
要するに私の肩書きが。世界を救った英雄、勇者アリシアって肩書きが、私から男を遠ざける要因のひとつなんだろ。だったら、そんなもの捨てれば良いんだ。そして、新しい自分に生まれ変われば良いんだ。
つまりはこういうことだよ、魔王フェレス。
一度しか言わないから、耳の穴かっぽじってよく聞けよ。
『いまここに勇者アリシアは永き眠りについた! だから、私はもう勇者アリシアじゃない! いまの私はそう、恋という名のアバンチュールを求める冒険者! その名も……その名もアリス! 冒険者アリス――それが私の新しい名前と肩書きだ! よく覚えとけ!』