黎明にて夢む
湿ったオーク木の板に囲まれた小さな寝室に入るなり少年は凍えるような細い声で、まるで誰かの非を訴えるかの如く言ったのだった。弾かれた琴線の如くに震えたその言葉と共鳴して、少年のつぶらな蒼い瞳は闇の中に怯えていた。
「―ママ。怖い、怖い…夢を見たんだ」
少年の声は聴き取れないほど小さく、それこそ呟きにさえ近いものだったが、母親を眠りから呼び覚ますには十分だった。
宵闇の中、ベットの上で緩慢な覚醒の気配がする。同時に慈愛に満ちた深い吐息が、簡素な堅いベットに横たわっているらしい母親の口からそっと洩れた。
少年はこの瞬間、母親の懐に飛び付きたい衝動を覚えたものの、そうはせず顔に安堵の色を浮かべるだけに止めるのだった。こんな微かな行為に、少年自身の胸を膨らます何かがあるのだろう。
薄く強々した掛け布の擦れる音がして枯れ枝のような体がゆっくり起き上がった。動くことに苦痛を伴うのか、その動作はギクシャクして幾らか柔軟さを欠いている。
「私の可愛い坊や。さあ、こっちにいらっしゃい…」
少年は歩いて、しかし足早に母親の胴へ縋りついた。年端もいかぬ小柄な少年ですら易々と腕を回せるほどに母親の胴周りは細い。強く求めようとするものなら、途端に霧となって消えていきそうな儚さがそこにはあった。
彼女は細い指で少年の頭を撫で、柔らかい髪を執拗に思えるほどに何度も何度も梳かすのだった。
ベットの脇にある小さなテーブルに、ただそれだけ載っている燭台の蝋燭へ小さな明かりが燈された。夜明け前の蒼い暗闇には見つめ合う母子の顔が浮かび上がる。オレンジ色の光が満ちた小さな空間の中で、少年はまだ母親の傍らで目を潤ませていた。
「……。」
母親は何も言わずにただ少年を半身で抱いていた。薄い壁の隙間から、静寂の気配が部屋の中に入り込む。
溶けだした蝋燭の液が燭台の錆びれた皿の底に溜まりだした頃、ようやく少年は落ち着きを取り戻してきたらしく、おもむろにその小さな口を開いた。
「―夢の中でね、ママが真っ黒になってたんだ。手も、足も、顔も、目も…。まるで影がママを食べちゃったみたいだった。それでね、僕は……。―怖くなって家から逃げたんだ。でも走ってる途中でやっぱりママが心配になって、家に戻ったんだ。すぐ戻ったんだ」
「…それで、どうなったの?」
「僕が帰ったら家には誰も居なくなってた。ううん、声は聞こえるんだ。けど、どこを探しても家には誰も居ないんだ。一人で探しまわっているうちに夜になって、やっぱりママはもう居ないんだって思った頃にまた声がして、僕は家を探すの。でも、何処にも居ないんだ…!」
「―そんなにお母さんを心配してくれたのね。あなたは優しい子よ」
「ママはどこにも行かないよね…?」
再びうろたえだした少年は母親の着ている襤褸の袖をぎゅっと掴む。母親は少年の問いに一寸だけ、沈黙をした。
「ママ?」
少年が怯えたように聞く。どんなに飾った絶望の言葉より、この一言は絶望の性質をよく表していた。
すると母親は、何かの溜まった器の底に穴が開くような微笑をフッと浮かべて、優しく少年に言った。
「ちょっと外に、出てみましょう」
「嫌だよ、ママとここに居たい!」
「大丈夫よ、今はママも一緒だから…」
母親は少年に麻布を羽織らせてから自身は燭台を右手に、半開きのドアを開けた。少年はやや躊躇ったものの母親の手に引かれて、覚束ない足取りでその直ぐ後に付いて行った。
宵に降った雨の残り香が朝霧の中に漂っている。家のドアを開けて背の低い草の上に足を一歩踏み出すと、母と子はあっという間に冷たい霧によって包み込まれた。土地柄からか、相変わらず低く垂れこめた曇天とこの霧のお陰で、母子の暮らすあばら家の周りは鬱蒼とした蒼い靄で何も見えなかった。
少年の冷たく汗ばんだ指は母親の手を強く握っているために全体が白く硬直していた。それと言うのも少年には今この手を離してしまえば永遠に互いを見失ってしまうという確信めいた恐怖感があったからだった。
しばらくして出し抜けに、母親が口を開いた。二人が家の右手にある農道の袖、緩やかな野坂を少し降りたときだった。辺りは変わらず灰色に近い蒼色の霧に覆われて何も見えない。少年のズボンの裾は草の露で冷たく濡れていた。
「いつか…お母さんも坊やみたいな夢を見たことがあるのよ。とっても怖くて、一人でベットのシーツにしがみ付いて震えていたわ。でもね、その時にある神父様の言っていたことを思い出したわ」
細い声で話し始めた母親の言葉を一つでも逃さないと言った風に、少年は母親に全身全霊を寄せている。遠くで小鳥の鳴く声が聴こえたが、霧に包まれたどの方向からその声が聴こえて来たのかは分からずに、少年はいよいよ自分が深い森の中を彷徨っているような不思議で恐ろしげな心地になった。
「―神はあなたを愛している。ただ愛は色んな形をしていて、時に人を絶望の淵に追いやることもある。それでもあなたがその愛を信じることが出来るならば、きっと天国の扉は開きあなたを迎い入れてくれるでしょうって。暗闇の中でお母さんは祈ったわ。その時はね、神様を信じることが出来た…」
「僕も神様を信じてるよ」
「そうね、…坊やは私より賢くて優しい子だよ、だから神様の御心を恨んではいけないわ。―私が天国に逝けるようにお祈りしてちょうだい。そしていつか、私が神様の御許に行くことが出来たのを喜んでね」
「僕、一生懸命お祈りするよ」
「ありがとう。坊やは私の天使よ」
母親はしっかりと息子を抱き寄せて手を、頬を、頭を撫でた。少年は誇らしいような恥ずかしいような気になり、そのどちらとも取れない難しいような顔つきでただ遠くを見つめた。
「あ、ほら! 東の空が明るくなってきた!」
少年は薄くなってきた霧の向こうを指差して、嬉々と言った。空を覆っていた分厚い雲が北へ南へ破れかかり、次第に大空の蒼さが大地より透かし見えてきていた。
小鳥たちの朝を祝福する声が聴こえる。陽気にダンスを誘う様な、あるいは朝食にはしゃぐ子供の様な囀りである。今度のそれの気配は明確で、声は明るく澄んでいた。
東の草原一面に萌えた若草を風が薙ぐ。それと共に霧は北に流れ、肥沃な大地には清澄な空気が新たに満ち満ちるのだった。東雲に、眩い光が煌めく。
少年の蒼く澄んだ瞳にも光明が差した。琥珀色に照らされた碧い世界に、少年は愛を感じた。
不意に少年は、自分と母親の足元から伸びる影に気付く。
そのまま空を見上げると、切れ切れになった白い雲を抜けた天高くに、薄く蒼い朝の月が母子を見守っているのだった。
「―パパ」
青年に近づいた少年に父の記憶は殆ど無かったが、彼は思わず口をついてそう言った。
企画「音符の文通」の出展作品です。
この企画は音楽から物語を創るという趣旨で、私『中ノ晁』と『着地した鶏』さんがそれぞれに小説を投稿しています。
私たちが題材にした曲はイギリス人歌手サラ・ブライトマンさんの唄う「Scarborough Fairです。
私の物語の内容は歌詞とは無関係で、曲の雰囲気のみを頼りに構成されています。ただ感性は人それぞれですから、「こんなのは違う」と申される方もいるかも知れません。感性の違いすらも楽しめる、という方は私の作品だけでなく着地した鶏さんの作品もご覧になっては如何でしょうか。