返済計画は、永久ループで
「お邪魔します」
手には、さっきコンビニで買った「利息」の入った袋
二度目のはずなのに、玄関をくぐるとき、心臓が前よりも高く跳ねる。
氷見の部屋は、やっぱりきれいだった。
家具の位置も、ソファの角度も、前に来たときとほとんど変わっていない。
違うのは――自分の中にある「ここに来たことの記憶」が、前よりも濃く重なっていること。
廊下に漂う柔軟剤の香りも、キッチンのステンレスの光り方も、
その全部が「氷見綾香」という人間の輪郭の一部みたいに感じられる。
「そっちのテーブル、資料広げて。
プリン、冷蔵庫に入れておいて」
「了解です」
言われたとおりにプリンを冷蔵庫へ入れる。
冷気がふっと頬に触れ、コンビニの蛍光灯とは違う、少し柔らかいオレンジ色の照明が台所を照らしている。
(完全に、生活圏の中に招かれてるんだよな……)
その事実を意識した途端、胸の奥で、じんわりと熱が灯る。
恋人だと明言されたわけでもないのに、
ここは間違いなく「他の誰でもない自分」が、今、招き入れられている場所だ。
テーブルの上にノートPCを広げていると、背後から湯気の音が近づいてくる。
「はい、支払い再開」
湯気の立つマグカップが、彼の手元の少し横に置かれる。
昨日と同じ、深煎りの香り。
でも今日は、それにプリンの甘い匂いが薄く混ざっていた。
「これで、コーヒー代の“元本”はとりあえずチャラにしてあげる」
「じゃあ、これで借金完済ですかね」
わざと軽口めに言うと、氷見はすかさず首を振る。
「いいえ。利息分が、まだ山ほど残ってる」
その言い方が、どこか嬉しそうに聞こえるのは気のせいじゃない。
「利息分、って?」
「仕事の遅れ」
ノートPC画面のスケジュールを指で示しながら、彼女は淡々と続ける。
「本来なら今日の定時までに終わってるはずだった作業が、まだ残ってる。
私が付き合ってあげてる時間も含めて、それぜんぶ“利息”」
(付き合ってあげてる時間、ね)
その一言が、胸の奥で甘く反響する。
彼女の理屈を借りるなら――
“付き合ってあげてる”分だけ、彼女自身も時間を支払っている。
(だったら、この貸し借りって、もうとっくにイーブンどころか、むしろ俺の方が得してないか?)
そう思った瞬間、「得」という言葉の意味が、ゆっくりと別の色に変わっていく。
仕事が進むとか進まないとかではなく、
こうして並んで椅子に座り、同じ画面を覗き込む時間そのものが、
彼にとってはすでに“報酬”みたいなものになっていた。
◇
しばらくは、真面目に作業を進めた。
仕様書の修正。
想定パターンの洗い出し。
明日のミーティング用の資料の整形。
仕事そのものは淡々としているのに、
横からふと落ちてくる氷見の指摘や視線が、その都度、心拍数を一段階上げてくる。
「ここ、条件の優先順位、間違えてる」
彼女の手が、マウスを持つ佐伯の手の上に重なる。
ほんの一瞬、カーソルを動かすためだけの接触。
それなのに、手の甲から肘にかけて、じわりと熱が広がる。
指を離す瞬間、わずかに名残惜しそうに見えたのは――
たぶん、気のせいじゃない。
彼女はすぐに姿勢を戻し、「次」とだけ告げる。
けれど、その耳朶の端が、よく見ればいつもより少しだけ赤いのを、
もう見過ごせるほど鈍感じゃなかった。
(……この“借金”、利息増えるの、わざとだよな)
心の中で苦笑する。
わざと仕事のタスクを細かく切って、
「まだ終わってない」「利息が残っている」と言い張れるように仕組んでいる。
そのセコい――いや、可愛い仕掛けの全部が、
彼女なりの「一緒にいる理由づくり」なのだと、ようやくはっきりわかってきた。
そして、自分がそれに、心地よく巻き込まれていることも。
◇
「……そろそろ、休憩」
区切りのいいところで氷見が立ち上がり、冷蔵庫へ向かう。
復路の足取りは、さっきコンビニでプリンを選んでいたときより、ほんの少しだけ軽い。
テーブルに、二つのプリンが並ぶ。
付属の小さなスプーンが、カチャ、とガラスの縁を叩いた。
「はい、さっきあなたが払った利息の一部」
「元本じゃなくて、利息なんですね、これ」
「当然。元本はさっきのコーヒーでチャラ。
これは、“長引いた分の慰謝料”みたいなもの」
「慰謝料って、誰が誰に払ってるんですか」
「ふふ。そこは、状況次第で変動制」
彼女は悪戯っぽく笑う。
「あなたが納めた高い利息よ。心して味わいなさい」
そんな曖昧なことを言いながら、氷見はスプーンを差し入れる。
ぷるり、と揺れたプリンが、なめらかな表面を崩し、
甘い香りがふわりと広がる。
ひとくち口に運んだ彼女の喉が、すっと動く。
その細いラインに、思わず視線が吸い寄せられた。
「……どう?」
「美味しいですけど、ちょっと贅沢ですね」
「たまにはいいでしょう。
利息を我慢しすぎると、借金のモチベーションが下がるもの」
「返済のモチベーション、の間違いじゃありません?」
笑いながら、自分もひとくちすくう。
舌に乗せた瞬間、クリームのコクとカラメルの苦みが広がって、
その後ろから、彼女の部屋の空気の温度が、じわりと染み込んでくるような気がした。
ふと横を見ると、氷見がこちらをじっと見ていた。
「……なにか?」
「ううん。ちゃんと“利息”を噛みしめてる顔してるなって」
「じゃあ、ちゃんと支払ってるってことで」
「そうね。
――その調子でいけば、たぶん、一生払い終わらないと思うけど」
さらっと、とんでもないことを言う。
けれど、その声には、かすかな期待と不安が混ざっているように聞こえた。
佐伯は、スプーンを持つ手を少しだけ止める。
(一生、払い終わらなくていいなら――それ、けっこう悪くない条件だな)
胸の内でそう答えながら、あえて軽い調子で返す。
「じゃあ、債務者として、長期返済プランを覚悟しておきます」
「そうして。
途中で“早期返済”とか考えたら、違約金取るから」
「違約金って……たとえば?」
わざと聞き返すと、氷見は少しだけ考えるふりをしてから、
スプーンの先で、彼の手の甲をちょん、と突いた。
「……そうね。
私のわがまま、ひとつくらい、無条件で聞いてもらう、とか」
その言い方は、いつもの「命令」ではなく、
どこか、許可を求めるような柔らかさを帯びていた。
その違いに気づいた瞬間、胸の奥がふっと温かくなる。
借金に例えないと、素直に言えない。
「一緒にいたい」とストレートに言えないから、
利息だの元本だのと、面倒くさい理屈で包んでいる。
そんな彼女の不器用さが、たまらなくいとしい。
「じゃあ、その違約金、できれば高めに設定しておきますね」
「……強気ね、債務者のくせに」
口ではそう言いながら、
氷見の目の奥が、ほんの少しだけ柔らかくほどける。
その変化が、自分だけに見えているような気がして、
佐伯はプリンの二口目を、わざとゆっくり味わった。
◇
プリンを食べ終えると、再びノートPCに向かう。
さっきよりも打鍵のリズムが揃ってきたのは、
糖分のせいか、それとも互いの呼吸が合ってきたせいか。
画面の隅に並ぶチェックボックスが、ひとつ、またひとつ埋まっていくたびに、
心の中の別のリストには、逆に「彼女への借り」が増えていく。
(手伝ってもらって、プリンまでご馳走になって……
いや、プリンは俺が払ったけど、そもそもの口実は彼女が作ってくれたわけで)
ぐるぐるとそんなことを考えながら、ふと気づく。
――このループは、きっと終わらせる必要なんてない。
元本がチャラになっても、
利息という名目で、また新しい時間を重ねていけばいい。
彼女がそう仕組んでいるのだとしたら。
自分は喜んで、そのゲームに乗り続ける。
むしろ、少しだけ“滞納”して、利息を膨らませておくのも悪くない――
そんな誘惑すら、頭をもたげる。
「……佐伯」
「はい?」
「今、変なこと考えてたでしょ」
「えっ」
急に名前を呼ばれ、肩が跳ねる。
氷見は画面から目を離さないまま、淡々と言った。
「顔が、“新しい返済プラン思いつきました”って書いてある」
「読心術ですか」
「貸し手は、借り手の表情くらい、把握しておくものよ」
さらりと言い切りながら、彼女はふと、こちらにだけ聞こえるくらいの声で付け足す。
「……利息、増やしてくれていいわよ。
その分、私も計算する楽しみが増えるから」
その一文が、静かな部屋の空気に溶けていく。
艶やかな、というには控えめな声。
けれど、その中に含まれた色を、佐伯の耳は確かに拾っていた。
(――ああ、もう完全に、好きだな、この人のこういうところ)
心の中でそう呟きながら、彼はキーボードに向き直る。
返しきれない借金を、わざと増やしていくみたいに。
これからも何度でも、この部屋で、コーヒーの香りと利息の甘さに包まれながら、
彼女の「口実」に乗り続ける未来を思い描きつつ。
――その未来に、どんな「トッピング」が増えていくのかまでは、
まだ、誰にも分からないまま。
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次回は20時更新です。お楽しみに。




