二十時の債務履行と、甘い利息
夜のオフィスは、昼間と同じ蛍光灯なのに、どこか色が違って見える。
人が減っただけで、こんなにも空気が変わるのかと、佐伯は毎回のように思う。
時計は、十九時五十五分。
フロアには、数えるほどの人影しか残っていない。
プリンターの音も止み、遠くの島で誰かがマグカップを片付ける気配だけが、静かな残響になっていた。
(……二十時、か)
さっきから、画面の右下の時刻表示ばかり見ている気がする。
資料の修正も、タスクとしては大した量じゃないのに、集中力が妙に散りやすい。
そんなとき。
カツ、カツ、とヒールの音が、フロアの奥から近づいてくる。
顔を上げる前から、誰かは分かっていた。
「――時間」
モニターの上から覗き込むように、氷見の声が落ちてくる。
今日もきちんとジャケットを着ているのに、昼間より少しだけ、髪の後れ毛が抜けている。
残業モードの緩さが、ほんの僅かに滲んでいるのがわかる。
「二十時、回ったわ。支払いに行きましょう、佐伯くん」
「支払いって……ここで残業じゃないんですか?」
「ここで済むなら、わざわざ“期限”なんて切らない」
淡々と言いながら、彼女はデスクの端を指先でトン、と叩いた。
「ノートPC、持って。今日はうちで作業する」
「……強制連行ですか」
「債務不履行の債務者に選択権はないの」
言葉だけは冷たそうなのに、目尻のどこかに微かな笑みの気配が混じっている。
そのバランスが、たまらなく彼女らしい。
(“借金ごっこ”第二ラウンドってわけね)
心のどこかで、もうすっかりそのやり方を理解してしまっている自分がいる。
嫌がっているふりをするのも、正直そろそろ芝居が過ぎる気がしてきた。
「……了解しました。債務者、従います」
ノートPCと資料をバッグに詰めながらそう答えると、
氷見は小さく「よろしい」と呟く。
それがどうしようもなく心地いい“承認”のように響くのを、佐伯は誤魔化さないことにした。
◇
会社の最寄り駅から、氷見のマンションの最寄り駅までは数駅。
平日の二十時過ぎ、車内はほどよく人が減っていた。
吊り革につかまるでもなく、ドアのそばに並んで立つ二人。
会話らしい会話はないのに、沈黙が前よりずっと柔らかい。
ガタン、と揺れた拍子に、肩と肩がかすかに触れた。
反射的に距離を取ろうとして――やめる。
(ここで離れたら、なんか“負け”な気がする)
そう思えたのは、たぶん一夜目とは違う自分になってしまったからだ。
視線を横に向けると、氷見は真正面を見たまま、表情を変えない。
けれど、睫毛の影がやや揺れ、指先がハンドバッグの持ち手を、ほんの少しだけ強く握った。
それは、彼女なりの「気づいてる」のサインにも見えた。
◇
マンションへ向かう途中、氷見が唐突に足を止める。
「コンビニ、寄る」
「何か足りないものでも?」
「利息」
即答だった。
「……利息?」
「コーヒー代、昨日から換算すると、もうそろそろ“滞納”扱い。
利息がつく前に、少しでも返済してほしいの」
そう言いながら、自動ドアをくぐる。
蛍光灯の白さが、彼女の横顔の線をくっきり浮かび上がらせる。
スーツ姿のままコンビニのスイーツコーナーを覗き込むその背中が、やけに生活感を帯びて見えた。
(仕事できる同期、コンビニでプリン選んでる図……反則だな、これ)
冷蔵ケースの前で立ち止まると、氷見は一番上の段を指差した。
「これ」
小ぶりなガラス瓶に入った、洋菓子店の監修ロゴが入ったプリン。
ふつうのプリンの倍はしそうな値段が、POPに印字されている。
「あの……これ、だいぶ“高利”じゃないですか」
「滞納すると利息が膨らむのは当然でしょう?
――二つ」
彼女は当たり前のようにそう付け足す。
「え、二つ?」
「元本と利息」
言いながら、ほんの少しだけ口元が緩む。
ここまで露骨だと、もはや「借金ごっこ」というより、「一緒に甘いものを食べる口実」でしかない。
佐伯は、財布を取り出しながらふっと笑った。
「はいはい、債権者さまのご指示どおりに」
「……そうやってすぐ乗ってくれるところ、返済態度としては優良ね」
お世辞とも皮肉ともつかない評価。
けれどその声色に、微かに照れのようなものが混じったのを、もう聞き逃さない。
レジに並びながら、確信めいたものが胸の底に沈んでいく。
利息。
滞納。
返済。
難しそうな言葉で飾ってはいるけれど、やっていることはただの――
そう気づいた瞬間、プリン二つ分のレシートが、妙に愛おしい契約書に見えてきた。
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次回は明日の8時更新です。お楽しみに。




