請求書はチャットで
終業チャイムまで、まだだいぶ時間がある。
なのに、朝からずっと、胸のどこかがそわそわしていた。
(落ち着け。いつも通り、いつも通り……)
キーボードを叩く指先に、妙なぎこちなさが混じる。
画面の端に、氷見の名前が映る社内チャットのログが、ちらりと目に入った。
《仕事で払える範囲だから》
《――今のところはね》
昨日のメッセージが、頭の中で勝手に再生される。
あれは、完全に“脅し”であり、“餌”でもあった。
(仕事で払える範囲の請求、ね……
いくらぐらいなんだ、そういうのって)
想像がろくでもない方向へ転がりかけ、慌てて思考を遮断した。
……視線を、自然なふりをして横に滑らせた。
氷見綾香は、いつもの席で淡々と仕事をしていた。
黒髪をひとつにまとめ、ジャケットの袖口から覗く手首は、相変わらず無駄がない。
モニターに向かう横顔も、同じ島の後輩に指示を出す口調も、昨日までと何ひとつ変わらない。
「氷見さん、この仕様書、ここで合ってますか?」
後輩の問いかけに、彼女はほんの一拍だけ視線を落とし、すぐに答える。
「……ここの条件分岐、逆。
それだと、例外処理が全部そっちに流れる」
落ち着いた声。
表情は、冷静そのもの。
そこに、“あの夜の続き”の影は一切見えない。
(会社では、昨日までと同じ距離感。
……鉄の掟、ちゃんと守ってるな)
そう思った瞬間、自分の方が意識しすぎていることに気づいて、余計に肩がこわばった。
「佐伯くーん、午後イチの資料、もう上がる?」
別部署の先輩が、ひょいと島の仕切りから顔を覗かせる。
「あ、はい。あと三十分あれば」
「了解。じゃあレビューの時間、調整しとくねー」
そんな日常のやり取りにも、どこか上の空で相槌を打つ。
一方で、氷見は、さっきからこちらを見ようともしない。
……いや。
一度だけ、会議室から戻ってきたとき、ふいに視線が交わった。
ほんの一秒にも満たない時間。
彼女は、何事もなかったように、すぐモニターに目を戻す。
それが、“鉄仮面”としての正しい振る舞いだとわかっていても。
昨夜の、指先で頬をなぞられた感覚を知ってしまった身には、その一秒がやけに重たかった。
(こっちも、切り替えないと)
そう自分に言い聞かせたところで、簡単にスイッチが切り替わるなら苦労はない。
氷見に言われた「仕事も。プライベートも」という言葉が、今になって効いてくる。
◇
「じゃ、昼行きまーす」
正午を告げるアラームが鳴ると同時に、フロアのあちこちで椅子が引かれる音がした。
同期や先輩たちが、自然と数人ずつのグループに分かれて、エレベーターの方へと流れていく。
「佐伯、お前どうする? コンビニ?」
「あー……今日、簡単に済ませます」
「了解。なんか欲しいもんあったら言えよー」
同期の背中を見送りながら、悠人は一度だけ氷見の方を見た。
彼女は相変わらず、画面に視線を落としたまま。
デスクの片隅に、飲みかけの紙コップ。
さっき自分で淹れてきたらしいブラックコーヒーが、半分ほど残っている。
「……」
声をかけるべきか、一瞬迷う。
だが、頭の中で、彼女の声が再生された。
『会社では他人』
自分で納得したくて飲み込んだルールなのに、いざ守ろうとすると喉がひりつく。
結局、何も言えないまま、悠人は椅子から立ち上がった。
◇
コンビニのおにぎりとペットボトルの麦茶を抱えて戻る。
フロアの照明が少しだけ昼休みモードに落とされていた。
自席に座って、黙々とビニールを破る。
キーボードの音も、電話の着信音もほとんどない。
代わりに、遠くの方で誰かの笑い声が断続的に聞こえてくる。
(……こういう静かな時間、妙に考え事しちゃうんだよな)
昨夜のソファ。
指先。
遠くなる気配と、「おやすみ」という声。
そこから一気に現実へ戻されるように、机の上でスマホが震えた。
「っ」
反射的に画面を見る。
表示されている名前を見て、心臓が一瞬止まりかけた。
『氷見』
社内チャットではなく、個人のメッセージアプリ。
アイコンに設定されている、初期設定のままのシンプルなシルエットが、
逆にやけに存在感を持って迫ってくる。
メッセージは、一行。
《コーヒー代の支払い期限、今夜20時》
(……来た)
喉が鳴った。
画面の文字はたった十五文字ほど。
どう見ても、ただの事務連絡のように簡潔なのに、
そこにぶら下がっている意味の候補が多すぎて、思考が一瞬フリーズした。
(今夜20時。
金額の指定はなし。
まさか、時給換算で……いやいやいや)
余計な計算を始めようとした矢先、二度目の通知が震えた。。
追撃の通知。
《通貨は日本円じゃなくていいわ。
……残業という名の労働力で払って》
画面の中の「……」が、独特の間合いを再現しているようで、背中に冷たい汗がにじんだ。
残業。
労働力。
完全に仕事用の単語なのに、どうしてここまで鼓動が跳ねるのか。
(つまり――)
思考のフローチャートを頭の中で引き直す。
ノードA:コーヒー代請求
ノードB:今夜20時指定
ノードC:支払い方法=残業
A→B→Cを経由して、ひとつの結論に到達する。
(“お金”じゃなくて、“時間”で払えってことか)
しかも、“誰とどこで”という情報は書かれていない。
書かれていないからこそ――それが、彼女からの招集であることが、いやでもはっきりする。
20時。
定時を過ぎ、同じフロアの人間がだいぶ減ってくる頃。
その時間に「残業という名の労働力」を要求してくる相手は、他にいない。
(ふたりきりの残業時間、確保済み……ってことか)
安堵と、別種の緊張が、同時に胸の中で膨らんだ。
“仕事で払える範囲”――という約束は、ぎりぎりのところで守られている。
たしかに、仕様書の続きか、打ち合わせ準備か、何かしら「仕事」は発生するだろう。
ただ、その場に自分と氷見しかいない、という条件が、
あらゆる意味で“オプション”を増やしてくる。
(コーヒー一杯に対して、残業何時間分なんだろうな……)
そんな冷静ぶった計算をしてみようとしても、
脳内CPUは別の部分でフル回転しているらしく、うまく動いてくれない。
指先が、返信ボックスの上で止まる。
《佐伯:今夜20時、了解です。
どこに行けばいいですか》
そう打ちかけて――消した。
(これじゃ、完全に“デートの待ち合わせ”だよな……)
打ち直す。
《佐伯:残業の件、承知しました。》
それだけ送って、一旦スマホを伏せた。
すぐに返事が来るとは思っていない。
氷見は昼休み中でも平然と資料に目を通し続けるタイプだ。
……と思っていたら、数十秒も経たないうちに、またバイブが震えた。
《氷見:詳細はあとで送る。仕事中にニヤけないように気をつけて》
「っ」
反射的に口元を押さえる。
(バレてる……)
見られている。
さっきから、視線を合わせないようにしていたつもりだったのに、
彼女の方では、こちらの表情変化まできっちりログを取っていたらしい。
恐る恐る顔を上げる。
氷見は、相変わらず真正面のモニターを見ていた。
無表情。
仕事モード。
ただ、彼女の指先が、一瞬だけキーボードの上で止まり、
デスクの上の紙コップを持ち上げる。
そのままゆっくり立ち上がり、給湯室の方へ歩き出した。
(……追いかけたら、掟違反か)
一歩、椅子から腰を浮かしかけて――やめる。
会社では“他人のフリ”をする、と自分で決めたのだ。
そのルールに守られているからこそ、
夜20時の「残業」が、特別な時間として成立する。
(だったら、その時間までは、ちゃんと“普通の同期”でいないとな)
深呼吸をひとつ。
机の上に開いていた仕様書をもう一度見直す。
来週のクライアント打ち合わせ。
自分の担当パートを通すことが、仕事上の責任であり――
そして、彼女との“次のステップ”への条件でもある。
今夜20時の「支払い」は、その途中のチェックポイントみたいなものだ。
(期日まで、あと八時間。
ここからの処理、ミスは許されないな)
自分で自分にそう言い聞かせると、
さっきまで脳内で暴走していた想像のフローが、少しだけ整理されていく気がした。
それでも――
スマホの画面に残った「残業という名の労働力で払って」という一文を見るたびに、
胸のどこかで、別種のプロセスがちゃっかり走り続けているのを、
悠人は否定できなかった。
(……コーヒー一杯って、思ったより、高くつくな)
そう、苦笑まじりに思いながら。
それでもどこか、納得している自分がいる。
氷見綾という女に、ペースを握られている以上――
その請求書を「高い」と文句を言う権利なんて、
最初から自分にはないのだと、どこかで理解していた。
――そして、今夜20時。
その“請求”の中身を、改めて思い知らされることになるのだと、
このときの悠人は、まだ知らない。
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次回は20時更新です。お楽しみに。




