債務完済通知
夜の都心を抜けるタクシーは、一定のリズムで信号に引っかかっては、また静かに加速していく。
リアシートに並んで座る二人の間には、拳ひとつ分ほどの距離。
外の街灯が窓ガラスをなぞるたびに、車内の暗がりに淡い線が走っては消えた。
フロントガラス越しに見えるメーターの光と、ナビの画面。
運転手はラジオもつけず、プロらしい無音の運転に徹している。
そんな静寂の中、隣からさりげなく声が落ちた。
「……よくやったわね、佐伯くん」
氷見は、前を向いたままだった。
窓の外の夜景を眺めている風を崩さず、そのまま続ける。
「本番環境、きれいに通したわ。
変な例外も投げずに」
「さっき、足元から例外スローされてましたけどね」
思わず口をついて出た言葉に、彼女の肩がわずかに揺れる。
笑ったのか、単に車体の揺れと重なっただけなのか、横顔からは判別できない。
バックミラーの向こうで、運転手が前方だけを見ているのを確認してから、氷見はほんの少しだけ声を落とした。
「ともかく、これで――」
そこで一拍置く。
「コーヒー代の借金は、完済として認めてあげる」
さらりとした口調だった。
何杯分かも定かでない「借金」。
残業明けの紙コップ、休日出社のテイクアウト、テスト環境での夜食代わり。
積もりに積もったはずの「ツケ」は、その一言で一気にチャラにされたらしい。
「……そうですか」
思わず窓の外に視線を逃がす。
街路樹の影が、ガラス越しに流れていく。
少し間を置いてから、言葉を選ぶ。
「じゃあ、もう通う理由なくなりますね」
できるだけ軽口に聞こえるように、冗談半分のトーンを乗せる。
氷見の反応は、すぐには返ってこなかった。
タクシーが交差点で減速し、ウインカーのカチカチという音が車内に満ちる。
やがて、信号が青に変わり、再び滑らかに走り出す。
そのタイミングで、彼女はようやく口を開いた。
「いいえ」
短い否定。
氷見は、運転手から見えない角度だけ、ゆっくりと首をこちらに傾けた。
横顔に、街灯の光が斜めに差し込む。
「完済した“優良顧客”には、特別なボーナス――報酬が出るのよ」
不敵、と言うほかない笑みだった。
口角だけが、わずかに上がる。
目元は笑っていない。
ただ、獲物に条件を提示するハンターのような、静かな自信だけが宿っている。
「……ボーナス」
悠人は、その単語を反芻する。
さっきのチャットを思い出す。
《本件に関する報酬の受領には、セキュリティレベル3以上の環境での専用端末への直接接続が必要です》
あのふざけた文面は、単なる比喩ではなかったのだと、今さらながらに理解する。
コーヒー代という名目の「債務」は、今日の本番プレゼンで正式に完済された。
ということは――その先にぶら下がっていた「インセンティブ条件」も、同時に発動する。
つまり。
(……今夜が、“その日”ってことか)
胸の奥で、何かが静かに鳴った。
高鳴り、というにはあまりにも制御されたリズム。
でも、決して平常運転ではない。
タクシーは、幹線道路から一本それて、住宅街の方へと入っていく。
マンションが立ち並ぶエリアに近づくにつれ、街灯の間隔は広がり、車内はさらに暗さを増した。
その暗がりの中で、氷見は視線を前に戻しながら、淡々と確認する。
「今日の残業時間、ちゃんと打刻した?」
「え? あ、はい。一応……」
「そう。じゃあ、タイムカード上の債務もクリアね」
何でもない業務会話のように聞こえるやり取り。
だが、その裏には別の意味が滑り込んでいる。
「ここから先は、勤務時間外の“私的接続”になるから」
彼女は、外の夜景を眺めながら言葉を足した。
「社内規程の監視対象外。
ログも残らない」
その説明は、妙に具体的で、妙にアバウトだった。
「監査に引っかからない範囲で、ね」
最後だけ、楽しげにささやく。
運転手には、きっとただのIT系の冗談にしか聞こえないだろう。
だが、当事者である二人には、それ以上の意味がありすぎた。
胸の奥で、さっきのヒールの一撃が再生される。
革靴越しに伝わった鋭い衝撃。
あれは単なる「発破」ではなく、「今夜のフラグ」を立てるトリガーでもあったのだろう。
「……ボーナスの内容は、開示されないんですか」
自分でも、少しだけ掠れた声だとわかる。
氷見は、正面のミラーに一瞬だけ視線をやり、運転手が相変わらず無表情で前方だけを見ているのを確認すると、ごくわずかに表情を緩めた。
「事前に仕様を全部ばらしたら、面白くないでしょ」
「テスト項目くらい、教えてもらえると助かるんですけど」
「それはもう、テスト環境で一通り通したはずよ」
さらりと言われ、言葉に詰まる。
暗闇の中で、彼女の横顔だけが静かに笑っていた。
「本番環境での動作確認は、これから。
バグったら、その場でパッチ当てるから安心しなさい」
「安心、なんですか、それ」
「少なくとも、強制シャットダウンする気はないってこと」
意味ありげに言い切ると、彼女はタクシーの窓の外に視線を投げた。
信号で一度停車したあと、車は緩やかに角を曲がる。
前方に、見慣れたマンションのエントランスが近づいてきた。
ガラス張りのエントランスホールに、間接照明の柔らかい光がともっている。
「すみません、次の交差点を左折して、その先のマンションの前でお願いします」
氷見が、手短に運転手へ告げる。
声はおおやけの「お客様モード」に戻っている。
タクシーは指示通りに曲がり、減速し、やがてマンションの前で停車した。
「お客様、到着しました」
「ありがとうございます」
メーターの金額を確認し、氷見がさっと支払いを済ませる。
領収書を受け取る指先まで、一切の淀みがない。
ドアが自動で開き、夜の空気が流れ込んでくる。
「……降りるわよ」
氷見が先にシートから出る。
ヒールがアスファルトを軽く叩く音が、妙に鮮明に響いた。
悠人も後に続いて車を降りる。
タクシーが走り去ると、周囲は一気に静かになった。
住宅街特有の、音を吸い込むような夜。
マンションのエントランス前、ほんの少しだけ距離を取って立つ二人。
ガラス戸の向こうには、オートロックのパネルと、いつもの観葉植物。
そこまでの数メートルが、やけに長く感じられる。
「……債務は完済」
氷見が、夜気に紛れるような声で言う。
「今日の分は、ちゃんと“支払い済み”にしておいてあげる」
「それは光栄です」
「で」
彼女は、オートロックのパネルにカードキーをかざしながら、淡々と続けた。
「ここから先は、債務じゃなくて“投資”だと思っておきなさい」
電子音とともにロックが外れる。
振り返りざま、わずかに顎をしゃくる。
「リスクはそれなりにあるけど、
リターンも、たぶん悪くないから」
その一言で、充分だった。
氷見綾香が、自分のマンションのオートロックを、
「優良顧客」に対して今まさに解放しているという事実。
それが、どんな「債務完済通知」よりも雄弁に、
今夜のステータスを示していた。
悠人は、喉の奥で小さく息を飲む。
「……じゃあ、その投資案件、
きちんと運用させていただきます」
自分でも驚くほど真面目な声が出て、思わず苦笑が漏れる。
氷見は、そんな彼を一瞥し、ほんの少しだけ目を細めた。
「途中でロスカットされたくなければ、
ちゃんとポートフォリオ、考えて動きなさい」
「が、頑張ります」
「努力目標じゃなくて必達よ」
軽く釘を刺してから、彼女はガラス戸を押し開けた。
温かい室内の空気が、わずかに外へ漏れ出す。
その境界線の手前で、悠人は一瞬だけ立ち止まる。
ここから先は、完全に「社外」。
ログも、監査も、鉄の掟も――ひとまず保留になる領域。
足元では、さっき感じたヒールの衝撃が、まだ微かに残っている気がした。
(……債務完済。
その先の“ボーナス”は、これからだ)
心の中でそう呟き、悠人は一歩、彼女の後を追って、
オートロックの内側へと足を踏み入れた。
お読みいただきありがとうございます。
もし「続きが気になる」「氷見さんが可愛い」と思っていただけたら、 ページ下部の【☆☆☆(評価)】や【ブックマーク】を押していただけると執筆の励みになります。
次回は明日の8時更新です。お楽しみに。




