本番環境へのデプロイ
ガラス張りの会議室は、外のフロアより一段だけ空気が重かった。
長机の向こう側には、クライアント側の担当者が三人。中央に部長クラスらしき人物、その左右を課長と若手が固めている。机の上には印刷した資料の束と、水の入ったグラスがきれいに並んでいた。
プロジェクターに映っているのは、新システムのフローチャートと画面遷移図。
その横で、佐伯悠人は、ゆっくりと息を整えた。
隣には、氷見綾香。
黒のジャケットに白いブラウス。髪はきっちりとひとつに束ねられ、表情は会議用の「業務仕様」に切り替わっている。さっき廊下で見せていた柔らかい空気は、もう欠片もない。
(ここから先は、本番環境だ)
喉の奥が、少しだけ乾く。
昨夜の「メンテナンス・モード」を思い出す。
視界をアイマスクで強制的に遮断され、半ば強引にスリープに追い込まれたあの五分。
何も見えない暗闇の中で、手を握られながら「大丈夫。あなたのロジックは通るわ」と静かに告げられた声。
あの時間のおかげで、いま目の前の光景は、妙にくっきりと輪郭を結んでいる。
(テスト環境での最終整備は済んでる。あとは、落ちずに本番を回すだけだ)
リモコンを握り直し、口を開く。
「では、今回ご提案する業務フローについて、改めてご説明させていただきます」
自分の声が、思ったよりもしっかりと会議室に響いた。
導入パート。
現行業務のボトルネック。
それを、どういう分岐と条件判定で解消するか。
深夜のテスト環境で、氷見と何度も線を引き直したフローチャート。
散らかっていた自分の案に、彼女の指先が一本ずつ道筋を通していった感覚を、悠人はスライドにトレースしていく。
◇
一通り説明を終えると、中央の部長が腕を組んだ。
「……ふむ。概ねの方向性は理解しました」
低い声に、自然と背筋が伸びる。
「ただね」
そこで、一拍置かれた。
「この承認フロー、本当にこんなに“後回し”してしまって大丈夫かな? 現場からの修正依頼が、ここに集中しない?」
部長の指先が、印刷資料の分岐点をとん、と叩く。
そこは、まさに氷見と議論を重ねた箇所だ。
(来た)
喉の奥がきゅっと締まる。
だが、すぐに昨夜の暗闇がよぎる。視界を奪われた代わりに整えられたロジックの感触が、背骨を支えていた。
『“全部できるようにする”っていうのは、だいたい破綻するのよ。
ユーザーがやりたいことをひとつ決める。他は後回し』
(そうだ。あの理屈を、ここでそのまま翻訳すればいい)
「ご懸念の点、ありがとうございます」
悠人は、できるだけ落ち着いた声で口を開いた。
「おっしゃる通り、従来のフローでは、ここに多くの例外パターンが積み上がっていました。
今回、あえて“ひとつ優先順位を決める”設計にしているのは――」
リモコンを操作し、フローチャートの拡大図に切り替える。
「現場の方々が、本来やりたい業務――“承認すべき案件を見極めること”に集中できるようにするためです。
それ以外の例外パターンについては、後段のサブフローで“後回し”として明示的に切り出しています」
ポインタで、別シートの簡略化されたサブフローを示す。
「つまり、“まとめて後回し”にしているのではなく、
“後で集中して処理できるよう、意図的に別レーン化している”イメージです。
その分、ここに来る案件の種類もログとして残りやすくなるので、運用開始後のルール見直しも行いやすいと考えています」
言葉は、思ったより滑らかだった。
昨夜、視界を奪われてまで叩き込まれたフレーズが、身体のどこかから勝手に立ち上がってくる。
視界の端で、氷見が微動だにせず資料を見つめている。
口を開く気配はない。
(“ここはあなたの担当パートだから。私が前に出たら、いつまでもテスト環境のままよ”)
あの冷静な宣告が、今は不思議と心強い。
◇
プレゼンは続く。
「ここ、障害時のロールバックが見えにくいね」
「この承認条件、現場から逆に反発が出ない?」
厳しい指摘も容赦なく飛んでくる。
一つ一つに、悠人は深呼吸を挟んでから応じた。
テスト環境で何度もシミュレーションした質問と返し。
「ここは図に戻る」「ここはあえて黙る」――そんな細かなフローを頭の中でトレースしながら、慎重に言葉を選ぶ。
そして、決定打のような質問が飛んだ。
「……正直に言うとね」
部長が、資料から視線を上げる。
「君たちの会社にお願いするのは、今回が初めてなんだ。
“机上ではきれいだけど、現場に落とした瞬間に破綻する”提案も、今までたくさん見てきた」
真正面から、視線が突き刺さる。
「このフロー、本当に現場で回ると、自信を持って言える?」
会議室の空気が、きゅっと締まった。
リモコンを握る手に、力がこもる。
その瞬間――
机の下で、「コツン」と鋭い感触が走った。
硬質なハイヒールの先端が、革靴の甲を、ほんの一瞬だけ小さくはじく。
音というより、振動に近い。
薄い革越しに伝わる、針のように細い刺激。
痛い、と言い切るには足りない。
でも、無視するには十分すぎる「注意喚起」だった。
反射的に視線を落としそうになり、ぐっと堪える。
ハイヒールは、すぐに足を引いて元の位置に戻る。
押し付けるでもなく、傷をつけるでもなく――ただ一度だけ、明確なトリガーとして。
(――“行きなさい”)
言葉にならない合図が、足元から背骨に向かって駆け上がる。
昨夜の、視界を奪われた暗闇の中で感じた体温と声が、その刺激とぴたりと重なった。
「――はい。言えます」
悠人は、部長の目をまっすぐに見返した。
「もちろん、完璧なフローなんて存在しません。
運用の中で、必ず想定外のケースは出てくると思います」
一呼吸おいて、続ける。
「ただ、その“想定外”が出てきたときに、
“どこでロールバックするか”“どこでルールを見直すか”――そのための逃げ道とログの残し方を、今回の設計では最初から組み込んでいます」
スライドを切り替え、例外処理のフローとモニタリング画面のモックアップを示す。
「正直に申し上げると、僕一人ではここまで整理できていませんでした。
仕様設計担当と何度も“現場で迷子にならないフローとは何か”を議論して、
あえて“全部をここに詰め込まない”形に落とし込んでいます。
僕たちの提案は、“机上で完璧に見せること”ではなく、
“現場で運用していく過程まで含めて責任を持てるフローをお渡しすること”だと考えています」
会議室に、短い沈黙が落ちた。
背中に汗がにじむ。
でも、さっきヒールが触れた足元は、不思議と落ち着いている。
トリガーはもう引かれた。あとは結果を待つだけだ。
◇
「……なるほど」
最初に口を開いたのは、若手の担当者だった。
「例外処理を“後回し”じゃなくて“別レーン化”してるって発想は、現場としても助かりますね。ログ取りやすいのはありがたいです」
「運用ルールの見直しを前提に組んでるのは、悪くない」
課長も、資料をめくりながら頷く。
中央の部長は、しばらくフローチャートを眺めていたが――
やがて、ふう、と小さく息を吐いた。
「……わかった。少なくとも、“机上で飾って終わり”の提案じゃないことは伝わったよ」
ゆっくりと資料を閉じる。
「細かい条件の詰めは、また別途打ち合わせさせてほしいけど――
大枠のフローについては、この案で進める前提で社内に説明しようと思う」
「ありがとうございます」
自然と頭が下がる。
「社内向けの説明資料も必要になる。
今日と同じように、導入と締めは君が話してくれるといい」
予想外の言葉に、悠人は一瞬言葉を失った。
「……はい。精一杯、努めさせていただきます」
深く頭を下げると、視界の端で氷見がごくわずかに顎を引いた。
それが評価なのか、単なる業務確認なのかは、表情からは読み取れない。
◇
会議室を出ると、外の廊下は、途端に「会社」に戻った。
クライアントの担当者たちに頭を下げ、エレベーターホールで別れる。
扉が閉まるまで、悠人は何度も「本日はありがとうございました」と繰り返した。
エレベーターの表示灯が遠ざかっていく。
その横で、氷見はごく自然な調子で、ほんの一言だけ落とした。
「……プレゼン資料、社内向けに体裁だけ直しておいて」
淡々とした業務連絡。
近くのデスクから社員が歩いてくる気配を感じながら、悠人も同じ温度で返す。
「了解です」
それだけ。
言葉は、鉄の掟の範囲内に収まっている。
けれど、さっき机の下で感じたヒールの一撃と、部長の言葉を引き出せた手応えが、その短いやり取りの裏側で、静かに熱を帯び続けていた。
二人はそのまま、少し距離を取って歩き出す。
オフィスに戻るころには、いつもの「他人同士」の配置に戻っていた。
◇
自席に戻り、PCを立ち上げる。
受信トレイには、すでに社内の通知がいくつか届いていた。
その中に、見慣れた送信者名が紛れ込んでいる。
氷見綾香。
心拍数が、わずかに一段上がる。
クリックすると、短いチャットが表示された。
《ミッション:クライアント打ち合わせ → ステータス:完了》
《本件に関する報酬の受領には、セキュリティレベル3以上の環境での専用端末への直接接続が必要です》
《※社内ネットワークからのリモートアクセスはサポート対象外です》
文章だけ見れば、ただのふざけた業務メッセージだ。
だが、昨夜のメンテナンス・モードと、机の下のヒールの衝撃を知っている身には、その意味するところがあまりにもわかりやすい。
(……専用端末、ね)
思わず、口元が緩む。
画面の前で深呼吸をひとつ。
本番環境へのデプロイは、ひとまず成功した。
次のフェーズ――よりセキュリティレベルの高い「環境」での処理――は、また今夜の話になるらしい。
タスク管理ツールには、新しいチェックボックスがひとつ増えていた。
《社内向け説明資料の改訂》
悠人はマウスを握り直し、まずは目の前のタスクに取り掛かることにした。
ヒールの一撃と、短いチャットの文面を胸の奥にしまい込みながら。
お読みいただきありがとうございます。
もし「続きが気になる」「氷見さんが可愛い」と思っていただけたら、 ページ下部の【☆☆☆(評価)】や【ブックマーク】を押していただけると執筆の励みになります。
次回は明日の8時更新です。お楽しみに。




