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恋のフローチャートは、彼女の指先で  作者: 深町 アオ


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メンテナンス・モード

 時計の短針と長針が、日付の境界線をゆっくり跨いでいく。


 画面右下のデジタル表示は、いつの間にか「0:17」を示していた。


 スライド最終版――保存済み。

 チェックリスト――全項目に✓。

 進行台本――赤ペンが走り切って、余白にこれ以上書き込むスペースはない。


「……終わった、っぽいですね」


 ソファから半分ずり落ちるような姿勢で、佐伯は小さく呟いた。


 肩は重く、目の奥はじんじんと熱い。

 脳のCPUだけがオーバークロック状態で回り続けているせいで、

 身体の方が処理落ちしかけている。


 氷見の部屋は、さっきからずっと静かだった。


 ノートPCのファンの小さな唸りと、

 エアコンの風がカーテンを揺らす音だけが、夜更けの空気をかすかに震わせている。


「これ以上いじると、逆にバグ増えそうだし……」


 画面を見上げながらぼんやり言うと、

 デスクのあたりで紙の重なる音がした。


「その認識は正しいわね」


 氷見が、プリントアウト一式を整えながら答える。


「ここから先は、“機能追加”より“安定稼働”優先」


 淡々とした声。

 にもかかわらず、その「安定」という単語のあたりだけ、ほんの少しだけ柔らかい。


 資料の山をまとめてテーブルの端に寄せると、

 彼女はくるりとこちらを振り返った。


「じゃあ、次は――メンテナンス・モード」


「……なんですか、そのモード」


「今のあなたみたいな状態の人間を、

 強制的に“再起動可能な状態”まで持ち上げるための機能」


 説明だけ聞けば、完全にシステム運用の会話だ。


 けれど、彼女の目の奥には、

 さっきまでのレビュー中とは違う、静かな色が灯っていた。


「ちょっと目、閉じて」


「え?」


「ここに寝て」


 彼女は、ソファの背に置いていたクッションをぽん、と叩いた。


 言われるがままに体勢をずらすと、

 頭の位置にふわりとクッションが差し込まれる。


 ソファの背が、思っていたよりも深く身体を受け止めた。


 天井の灯りが、じわじわと滲む。


「目、閉じるって……寝たらさすがにマズくないですか。

 今寝たら、朝までフルスリープコースですよ、きっと」


「フルスリープは禁止。

 でも、このまま稼働続けるのも非効率」


 氷見は、どこかへ歩いていき、引き出しを開けるガラガラという音を立てた。


 すぐに戻ってきた彼女の手には、小さな箱が握られている。


「だから、メンテナンス・モード」


 箱をひらりと振って見せる。


 見覚えのある、ドラッグストアでよく見かけるパッケージ。


「……蒸気でホットアイマスク」


「そう。視覚情報、いったん遮断」


 箱から個包装を取り出し、

 ビリ、とビニールの音を立てて開封する。


 ふんわりと、温かく甘い香りが広がった。


「はい、じっとして」


 彼女がソファの横に膝をつく気配がする。


 顔のすぐ近くに、彼女の影が落ちる。

 指先が、そっと彼のこめかみのあたりに触れた。


 ホットアイマスクが、目元にやさしく当てられる。


 じわり、と熱が広がった。


 視界が、すとん、と落ちる。


 白い天井も、デスクのシルエットも、

 資料の束も、PCの光も、全部まとめてフェードアウトしていく。


「視覚情報遮断。

 ――五分だけ、強制スリープ」


 どこか楽しそうに、それでいて真面目な声で彼女が宣言した。


「いや、五分で起きられる気がしないんですけど」


「起こす側を誰だと思ってるの」


 その返しが妙に頼もしくて、

 佐伯は、ふっと力の抜けた息を吐いた。


 目元の温度が、じんわりと眼窩の奥の疲れをほぐしていく。


 さっきまでギラついていた数字やフローチャートの残像が、

 ゆっくりと遠ざかっていく。


 それでも、心の中にはまだ、

 「失敗したらどうしよう」「言葉が飛んだらどうする」という

 エラーのログが停止せずに流れ続けていた。


(ここまで準備しても、不安って消えないんだよな……)


 視界がなくなると、

 逆に、胸のざわめきが際立つ。


 何かを見て紛らわせることもできない。


 そんなふうに、残りかけの不安が頭をもたげたそのとき。


 ふいに、指先に、別の温度が触れた。


「……っ」


 驚いて反射的に手を動かしかける前に、

 その手が、しっかりと包み込まれる。


 氷見の手だ、とすぐに分かった。


 細くて、骨ばっているのに、

 掌の内側は思っていた以上に柔らかい。


 ぎゅっと握り込まれたわけではなく、

 でも、離そうと思っても離れない、ちょうどいい圧。


 視界ゼロの状態で、その感触だけが研ぎ澄まされる。


「……大丈夫」


 耳元――ではなく、少し離れた位置から、

 静かな声が落ちてきた。


 視覚が奪われている分、

 その一言の響き方が、いつもの倍くらい深く刺さる。


「あなたのロジックは通るわ」


 淡々とした断言。


 お世辞っぽさも、慰めっぽさもない。

 「評価」と「保証」の中間みたいな、

 氷見綾香という人間に特有の、あの声のトーン。


 それが、今は、ただひたすらに嬉しかった。


「……本当ですか」


 目を閉じているせいで、

 いつもより素直な言葉が、すっと口からこぼれた。


 返答は、すぐにやってくる。


「仕様に矛盾はない。

 リスクも洗い出して、対策も入れた。

 先方の“やりたいこと”と、うちのリソースの妥協点もきちんと見つけた」


 一つひとつ、淡々と列挙していく。


「ここまで積んで、それでも“失敗したらどうしよう”とか言い出すのは、

 ただの思考ノイズ。

 ――だから、その部分は、私が一回フィルタリングしておいてあげる」


 そこで、繋いだ手に、

 ほんの少しだけ力がこもった。


 ぎゅ、と。


 小さな握手にも満たない、

 けれど、確かな圧。


「不安だけ、私のログに一旦退避。

 明日は、“必要なロジック”だけ持って行きなさい」


 そんなことを平然と言う。


(……どんなストレージなんだよ、それ)


 心のどこかでツッコミを入れつつも、

 その言葉に甘えたい気持ちの方が、今はずっと大きかった。


 アイマスク越しの世界は、真っ暗だ。


 でも、その暗闇の中に、

 彼女の手の温度だけが、ぽうっと浮かび上がっている。


 指先から伝わる体温が、

 さっきまで脳内をぐるぐる回っていた不安を、

 ゆっくりと吸い上げていくような感覚があった。


「……そんな機能、いつの間に実装したんですか」


 ぼそりと呟くと、

 氷見は小さく笑った。


「最初から、標準搭載よ。

 ただ、呼び出してくれるユーザーがいなかっただけ」


 さらっと言うくせに、

 言葉の端に、ごく薄い寂しさのようなものが滲む。


 それを感じ取ってしまう自分の感度も、

 だいぶ彼女仕様になってきた。


「じゃあ……これからも、遠慮なく呼び出します」


「どうぞ。

 ただし、回数が増えた分、メンテナンス費用も上がるわよ」


「利息、ってやつですね」


「理解が早くて助かる」


 お約束の返し。

 目を閉じていても、彼女が今どんな顔をしているのか、なんとなく分かる。


 蒸気が、じんわりとまぶたの上で広がり続ける。


 ぎゅうっと凝り固まっていた目の周りの筋肉が、

 少しずつ解けていく。


 静かな夜の空気。

 エアコンの風。

 彼女の手の感触。


 それだけを入力として受け取っていると、

 さっきまで暴走気味だった思考回路が、

 ゆっくりと、低いクロック数へ落ちていくのが分かる。


「……五分、って言いましたよね」


「うん」


「すでに、だいぶ気持ちよくなってきてるんですけど」


「それは、メンテナンスがうまくいってる証拠」


 手の甲を、親指で、ほんのりとなぞられる。


 撫でている、というほどあからさまではなく、

 ただ、指先がそこに「いる」ことを確認するような、細かい動き。


 そのささやかなストロークすら、

 今の佐伯には、過剰なくらいの情報量だった。


「……氷見さん、って」


「なに」


「わりと、過保護ですよね」


「貸したものを回収できないリスクは、極力減らしたいだけ」


 すぐに返ってくる、理屈めいた答え。


 でもその裏に、

 「あなたをちゃんと明日に送り出したい」という本音が透けて見える。


 それが、どうしようもなく心地いい。


 借金ごっこ。

 利息。

 割り込み処理。


 どれもこれも、

 彼女が素直な言葉の代わりに選んだ、

 愛情のラッパーみたいなものだ。


(だったら、この“メンテナンス・モード”も、そのひとつか)


 そう思うと、

 指先から伝わる体温が、

 確かな「好意」の温度として染み込んでくる。


 呼吸が、少しずつ深くなる。


 胸のあたりで渦巻いていたノイズが、

 遠くへ押しやられていく。


 代わりに、

 「明日、ちゃんと決める」という、

 一本だけまっすぐなフラグが、静かに立ち上がる。


「……そろそろ、五分」


 氷見が、小さく告げた。


「戻ってこれそう?」


「はい。たぶん」


「“たぶん”は信用しない」


 苦笑混じりの声。


 それでも、繋いでいた手を、すぐには離さない。


「目の前に戻ってきたら、まず何するか、言って」


「え?」


「再起動後の最初の処理。

 言語化できないと、またさっきみたいにノイズに飲まれる」


 その言い方があまりに“氷見的”で、

 思わず笑ってしまう。


「……スライド、もう一回だけ軽く見返して。

 そのあと、ちゃんと寝ます」


「いいプランね」


 満足そうに、彼女の指先が、もう一度だけぎゅっと強く握る。


「じゃあ、戻りなさい」


 アイマスクが、そっと外された。


 世界が、ゆっくりとフェードインする。


 オレンジがかった照明。

 デスクの上の資料の山。

 向こう側でこちらを覗き込む、氷見の顔。


 さっきまで真っ暗だったせいか、

 彼女の瞳の中の光が、やけに鮮明に見えた。


「おかえり」


 短くそう言って、

 ようやく彼女は手を離した。


 離れてしまった掌が、少しだけ物足りない。


 それでも、胸の中のざわつきは、さっきよりもずっと静かだ。


(……メンテナンス、完了)


 自分でそう認定しながら、

 佐伯はソファから身体を起こした。


 明日の会議。

 その先の借金ごっこ。


 どちらに向けてのロジックも、

 今なら、きちんと通せる気がする。


「じゃあ、最後の軽いチェックだけ付き合ってもらえます?」


「もちろん」


 氷見は、いつもの「貸し手」の顔に戻り、

 テーブルの資料を手に取った。


 決戦前夜。


 メンテナンス・モードを経た二人の間には、

 さっきまでと同じ距離感のはずなのに、

 どこか、違う温度のリンクが結ばれていた。


 ――そのリンクが、翌日の会議室で、

 どんな出力をもたらすのか。


 それを知るのは、もうすぐだ。


お読みいただきありがとうございます。


もし「続きが気になる」「氷見さんが可愛い」と思っていただけたら、 ページ下部の【☆☆☆(評価)】や【ブックマーク】を押していただけると執筆の励みになります。


次回は20時更新です。お楽しみに。

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