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恋のフローチャートは、彼女の指先で  作者: 深町 アオ


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背面からのアクセスと優先順位

 決戦前夜の空気は、昼間のオフィスとは違う重さを持っていた。


 氷見の部屋の照明は、いつもより少しだけ明るい。

 テーブルの上にはノートPCが二台、印刷した資料の束、赤ペン、付箋。

 そのどれもが、「明日の会議」という一点に向けて整列している。


 時計は、すでに二十三時を回っていた。


(ここまで来たら、あと一押し、か)


 佐伯は、氷見のデスクチェアに腰掛けていた。

 背もたれは高く、座面はほどよく硬い。

 そこに、いつも彼女が座っているという事実だけで、変に緊張する。


 画面には、クライアント向けプレゼンの最終版が映っている。

 明日の本番で、自分が説明を担当するパート。

 何度も読み返して、修正を重ねてきたスライドたち。


「――じゃあ、最後の通し」


 背後から、氷見の声が落ちてきた。


 彼女は椅子のすぐ後ろ、佐伯の肩越しに画面が覗ける位置に立っている。

 細い腕を組み、背もたれの上に片手を置いているせいで、

 その身体の気配が、じわじわと背中に近づいてくる。


「一回、通しで説明して。声に出して。

 本番は、黙読じゃどうにもならないから」


「了解です」


 深呼吸をひとつ。


 スライドを一枚目に戻し、

 佐伯は、明日のクライアントを想定して口を開いた。


「本日はお時間いただき、ありがとうございます。

 まず現状の業務フローと、既存システムのボトルネックについて――」


 画面右下にある「次へ」のボタンにカーソルを合わせ、クリック。

 二枚目、三枚目と進めるごとに、説明のリズムが整っていく。


 数字、図表、課題の整理。

 それらが自分の言葉として口から出ていく感覚。


 ――そこまでは、良かった。


 スライドが、問題の「提案フロー図」に差し掛かった瞬間。


 背もたれごしに、ふっと重さが加わった。


 椅子の背に、別の体温が触れる。


 ゆるやかに。

 ためらいのない速度で。


 柔らかい感触が、シャツ越しに背中へと押し寄せてきた。


(……っ)


 思考が、一瞬だけ空白になる。


 彼女の身体が、完全に密着する形で乗ってきている。

 背中と背中、というよりも――

 背中と、もっと柔らかいどこか。


 呼吸が止まりかけたところで、

 首筋のあたりに、かすかな吐息がかかった。


「続けて」


 耳のすぐ横で、低く囁く。


 息が、皮膚の表面を撫でていく。

 それだけで、心拍数が一段階上がるのがわかった。


「え、っと……えー……こちらが、提案フローの――」


 言葉が、わずかにつっかえる。


 マウスを握る右手に、力が入りすぎる。


 画面上のカーソルが、

 まるで持ち主の動揺を反映するように、すっと狙いを外した。


 次のスライドに進むつもりが、

 別のウィンドウの端をクリックしてしまい、

 要らない画面がぴょこんと手前に飛び出す。


「あ」


 間抜けな声が漏れた瞬間。


 上から、別の手が重なった。


 氷見の右手が、佐伯の右手の上に、すっぽりと覆い被さる。


 指と指の間に、冷たい指が滑り込む。

 掌全体が、彼女の掌と密着する。


 背中も、手も、完全にホールドされる形。


 逃げ道が、どこにもない。


「カーソル震えてる」


 耳元で、くすりと笑う気配。


「……何に緊張してるの?

 明日の会議? それとも、今?」


 「今」という単語のところで、

 わざと一拍だけ、言葉が落ちる。


 その間合いが、反則級に艶っぽい。


(決まってるだろ、今だよ……)


 さすがに口には出せない。


 言葉の代わりに、耳のあたりが、熱を持っていく。

 自分でも分かるくらい、火照っていくのが恥ずかしい。


 背中全体を包むような体温と、

 掌を覆う指の細さと、

 首筋にかかる息づかい。


 その全部が、「今ここ」に集中していて、

 明日の会議のことなど、一瞬で吹き飛びそうになる。


「……どっちも、です」


 どうにか絞り出した声は、自分でも驚くくらい掠れていた。


 氷見は、すぐには返事をしない。


 代わりに、

 重ねた自分の手で、マウスをそっと操作した。


 カーソルが滑らかに動き、余計なウィンドウを閉じる。

 スライド画面が戻り、「提案フロー」のページが再び前面に出る。


「ほら。戻った」


 耳元に落ちる声は、いつもの仕事モードと変わらない冷静さなのに、

 その体勢は、どこからどう見ても「仕事用」ではない。


 佐伯は、視界の端のカーソルを見ながら、

 背中で彼女の呼吸リズムを感じていた。


 吸う息と、吐く息。

 それが自分の肺の動きと、妙にシンクロしていく。


「……続き、言ってみて」


 重なった手に、わずかに力がこもる。


 クリック。


 スライドが切り替わる。


「こ、このフローでは……従来の分岐処理を簡略化し、

 ユーザーが“やりたいこと”を最短ルートで選択できるように――」


 喉が渇く。

 コーヒーの苦味の代わりに、

 首筋を撫でる吐息が、じわじわと意識を侵食してくる。


「ふーん」


 氷見の顎が、ほんの少しだけ肩に触れた。


 プロジェクトの説明をしながら、

 自分自身の「やりたいこと」が、まったく別方向に暴走しそうになる。


(これ、絶対わざとだろ……)


 画面の中のフローチャートは、

 矢印と四角形で綺麗に整理されている。


 けれど、今この瞬間の自分の感情フローは、

 完全にスパゲッティコードだ。


「ねえ、佐伯くん」


 氷見の指が、彼の指の間をわずかに動く。


「この分岐、さっき私が言った通りに整理した?」


「え? あ、はい。ユーザーのやりたいことをひとつに絞って、

 それ以外は“後回し”に――」


「そう」


 満足げな息づかい。


「だったら、今も同じ。

 一回に処理するのは、ひとつだけ」


「……はい?」


 意味が、すぐには飲み込めない。


 彼女は、重ねた手を少しだけ締めるように握り、

 首筋ギリギリの位置に唇を寄せ――る寸前で止めた。


 肌に触れるか触れないか、ぎりぎりのライン。


 そこから、ささやく。


「明日の会議の不安と、

 私の背中密着のどっちも同時に処理しようとするから、

 カーソルが震えるの」


 耳朶のすぐ近くで、

 低く笑う気配がした。


「優先度、決めなさい」


 それは、いつも彼がフロー図で言われていることと同じだ。


 優先度。

 ひとつに絞る。


(優先度……)


 明日の会議。

 案件の成功。

 そして、今、背中を完全に預けているこの人。


 どれもこれも、「大事」のフラグが立ちすぎている。


「……今は、とりあえず、会議を優先しないと」


 苦笑混じりにそう返すと、

 氷見は「賢明ね」と短く言った。


 ただ、その声色には、

 どこか「試験合格」を告げる教師のような、

 含みのある満足が混じっている。


「じゃあ、今はそっちを手伝ってあげる」


 そう言って、彼女はようやく背中の圧を少しだけ緩めた。


 とはいえ、離れはしない。


 密着状態は、そのまま。

 重ねた手の温度も、そのまま。


「次のスライド」


 彼女が言うたびに、

 佐伯の指が、彼女の指にガイドされる形でクリックを繰り返す。


 スクリプトの確認。

 数字の強調。

 言い回しの微調整。


 仕事としてのチェックは、徹底している。


 その一方で、彼女の視線は、画面と同じくらい、

 佐伯の耳のあたりを見ている気がしてならなかった。


「……だいぶ、落ち着いてきたじゃない」


「え?」


「カーソル。さっきみたいに暴れてない」


 彼女はそう言って、耳のすぐ横に視線を滑らせる。


「耳の色は、まだ“警告レベル”だけど」


「警告レベルってなんですか」


「オレンジ。

 赤になったら、処理を一旦中断させる」


「中断、って」


「休憩ってこと」


 さらりと言いながら、その「休憩」がどういう内容なのかを、

 曖昧なままにしておく。


 そのあたりの濁し方が、氷見らしい。


 Sっ気を、きっちり仕事用語でラッピングしてくる。


「でも、今日はちゃんと“会議前夜”だから。

 本番の邪魔はしない」


 そう言って、彼女はようやく、背中から身体を離した。


 圧が抜ける。

 椅子が軽く揺れる。


 さっきまでそこにあった温度が一気に引くと、

 逆に、肌の上にその残り火だけが残った。


「――はい、通しは合格」


 氷見は椅子の背に置いていた手を離し、

 デスクの縁に指先をトントンと当てた。


「言い回しも、流れも悪くない。

 明日は、ちゃんと“貸し手”の顔に泥を塗らない程度には戦えそう」


「貸し手、って」


「コーヒー代と利息と、借金回収と。

 いろいろ前払いしてるでしょ、私」


 あくまで軽く言いながらも、

 その目の奥には本気の評価が宿っている。


 彼女は、自分が注いだ時間と労力ぶん、

 きっちりリターンを求めるタイプだ。


 でも、そのリターンは、

 単なる案件の成功だけじゃないのだと、今では分かっている。


(“一緒にいる口実”を続けるための、投資みたいなもんだよな)


 彼女は、そんなことを決して口には出さないけれど。


「……明日、ちゃんと決めたら」


 ふいに、氷見が言葉を継いだ。


 佐伯が振り向く前に、

 彼女の指先が、デスクの上のマグカップの縁をなぞる。


「コーヒー代とは別枠で、報酬を一個、解禁してあげる」


「報酬?」


「そう。

 “昨日まで後回しにしてた処理”の、ひとつくらい」


 その言い方は、あまりに抽象的で、

 具体的な絵は浮かばない。


 ――けれど。


 彼女の視線が、一瞬だけ佐伯の唇のあたりをかすめたような気がして、

 心臓が、また余計な仕事を始めた。


「……それ、仕様書に明記してもらっていいですか」


 冗談混じりにそう返すと、

 氷見は「ダメ」と即答した。


「仕様に書いたら、フロー通りにしか動けなくなるでしょ。

 私は、気分で処理を増やしたり減らしたりしたいの」


「わがままですね」


「貸し手の特権」


 あっさり言い切る声に、

 Sっ気と自信が滲んでいる。


 それが、どうしようもなく心地いい。


 主導権を握られている、という自覚が、

 今の佐伯には、むしろ安心材料になりつつあることを、

 彼自身、薄々分かっていた。


「じゃあ、明日はちゃんと“返済”してきます」


「当然」


 氷見は、椅子の背をぽん、と叩く。


「そのための“背面アクセス”だったんだから」


 耳元に残った熱が、

 その言葉と一緒に、じわりと全身へ広がっていく。


 決戦前夜。


 デスクの上の資料と、

 背中に残る体温と、

 カーソルの微かな震え。


 その全部が、

 明日の会議と、その先の「報酬」へと繋がっている。


(――絶対、決めて帰ってくる)


 佐伯は、画面をもう一度だけ見直しながら、

 自分の中のフロー図を書き換えた。


 優先度トップ。

 明日の会議。


 そのすぐ下の階層に、

 氷見綾香という女が、がっちりと組み込まれていることを感じながら。

お読みいただきありがとうございます。


もし「続きが気になる」「氷見さんが可愛い」と思っていただけたら、 ページ下部の【☆☆☆(評価)】や【ブックマーク】を押していただけると執筆の励みになります。


次回は明日の8時更新です。お楽しみに。

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