給湯室のセキュリティホール
クライアント会議の当日が、じわじわと近づいてくる。
リハーサル前の午後三時。
フロアの空気は、ほどよく張りつめていた。
誰もが自分の資料とにらめっこし、電話の本数も午前中より減っている。
ざわざわとした喧騒ではなく、低いエンジン音のような集中の気配。
(……カフェイン、補給しとくか)
佐伯は、自分の席から立ち上がった。
モニターの隅には、本番用スライドのサムネイルが並んでいる。
ほぼ仕上がっているはずなのに、微妙な不安だけが、まだ胸の底に残っていた。
給湯室は、フロアの端。
人の導線から、ほんの少しだけ外れたところにある。
自動ドアをくぐると、空気の温度が僅かに変わる。
コーヒーマシンの機械的な匂いと、洗剤の香りが混ざった、小さな閉じた世界。
今、この時間帯にここを利用するのは、たいてい決まって「限界が近い人間」だ。
幸いにも、今日は誰もいない。
紙コップを一つ取り、マシンの下にセットする。
ガタン、と小さな音。
ボタンを押すと、じわじわと黒い液体が落ちていく。
その単調な動きを眺めながら、頭の片隅でプレゼンの構成をなぞる。
(オープニングで、先方の課題感をもう一回なぞって……
数字のスライド、三枚続けるのは重いか? いや、でも一枚減らすと説得力が——)
考えごとに意識を半分持っていかれた、そのとき。
「――ひとり分?」
背後から、静かな声が落ちてきた。
振り向く前に、誰なのかは分かっていた。
心臓が、ワンテンポだけ打ち方を変える。
振り返ると、給湯室の入り口に、氷見が立っていた。
いつものジャケット。
ブラウスの襟元は、少しだけ緩んでいる。
フロアの蛍光灯とは違う、やわらかい照明が、その黒髪の輪郭をふわりと縁取っていた。
「お疲れ様です、氷見さん」
とりあえず、社内用の距離感で挨拶をする。
氷見は、すっとこちらへ歩み寄り、紙コップの残数に一瞥を落とした。
「私の分も淹れて。……ブラックで、濃いめ」
その注文を聞いた瞬間、
頭の中で、まったく同じ言葉が、別の場所の空気とセットでフラッシュバックする。
――まだ外が薄暗い、お泊まりの朝。
彼女の部屋のキッチンで、寝ぐせだらけの自分に向かって告げられた、まったく同じフレーズ。
(やっぱり、わざとだよな、これ)
胸の奥で、苦笑とともに熱がこみ上げる。
「了解です。債権者さまの分も、濃いめで」
小さな冗談で返すと、氷見は「ふっ」と息を漏らしただけで、特に表情は崩さない。
「いい返し。でも、ここは会社だから。
――“氷見さん”で十分」
そう言いつつ、給湯室のドアが閉まるほうへ視線を送る。
ドアの小窓から、フロアの様子はかろうじて見えるが、
こちら側の声までは届かない。
監視カメラもない。
人の通りも少ない。
会社というシステムの中で、
ここだけが、セキュリティの甘い小さな「穴」みたいな場所。
(給湯室って、マジでセキュリティホールだよな……
ルールのパッチ、当てにくい)
そんなことを考えながら、もう一つ紙コップを取り出し、
マシンのボタンを連続で押す。
二つ分のコーヒーが、並んで落ちていく。
沈黙。
けれど、その沈黙は気まずさではなく、
お互いの呼吸を微妙に探り合うような、薄い膜のような静けさだった。
「会議前に、コーヒーって珍しいですね」
自分でも驚くほど、声が少しだけ低く出た。
「普段はあまり飲まないけど。
今日は、さすがにね」
氷見は、カウンターの縁に軽く腰を預けながら言う。
「一応、私も“人間”だから。
心拍数くらいは、上がる」
その言い方はあくまで淡々としているのに、
その「人間」という単語の部分だけ、わずかに温度が高かった気がした。
コーヒーが淹れ終わる。
紙コップを二つ、慎重に持ち上げる。
片方を氷見に差し出そうとして――ふと、迷う。
どこまでが「会社では他人」のルールの範囲内なのか。
どこから先が、セキュリティ違反なのか。
そんなラインを意識してしまう自分自身が、もうすでに、だいぶ侵入されている証拠だ。
「どうぞ。……ブラックで、濃いめ」
あの朝と同じセリフを、今度はあえて自分の方からなぞってみる。
氷見は、少し目を細めた。
そのまま、彼の手からカップを受け取る――
はずだった。
けれど、実際の動きは、ほんの少しだけ予定より遅かった。
指先と指先が、紙コップ越しではなく、
生のまま、ぴたりと触れ合う。
その接触が、ありえないほど長く続いた。
離すタイミングを測り損ねた、というには、不自然なほど。
指先の熱が、細い電流みたいに腕を伝って肩まで駆け上がる。
コップの表面の熱より、肌と肌の接点の方が、ずっと強く意識に残る。
(……ルールギリギリ、攻めてくるな)
心の中でそう呟きながらも、
佐伯は、その「ギリギリ」の時間に、明らかに甘えていた。
彼が先に指を離すか。
彼女が先に指を離すか。
そんな些細な勝負をしているみたいな数秒。
最終的に、わずかに先に手を引いたのは、氷見の方だった。
紙コップが、彼女の手の中に完全に移る。
その瞬間、給湯室の静けさが、いきなり現実の温度を取り戻した。
「……会社では他人、でしたよね」
冗談めかしてそう言うと、
氷見は、紙コップの縁に視線を落としたまま、口角だけをわずかに上げた。
「そうね。
だから、今のは“器”の受け渡し。
中身にまで触れたつもりはないわ」
詭弁だ、と笑いそうになる。
でも、その詭弁ごと、いとしいと思ってしまっている自分がいる。
彼女は、カップをひと口も飲まないまま、一歩だけ近づいた。
給湯室の床材が、きゅっと小さな音を立てる。
距離が、一気に縮まる。
耳元すれすれの位置に、彼女の気配が来る。
コーヒーの苦い香りと、柔軟剤の淡い匂いが、すぐそばで混ざり合った。
「このコーヒー代は——」
囁き声。
鼓膜のすぐ近くで、息がかすかに触れる。
「会議の成功で払ってもらうから」
言葉の一つひとつを、
唇の形ごと想像できてしまう距離。
意味は、あくまで仕事の話だ。
支払い手段も、あくまで“成果”だ。
それでも、「成功」という単語が、
今日のクライアント会議だけを指しているとは、とても思えなかった。
プロジェクト。
借金回収ごっこ。
彼女の予定表にある「優先度トップ」のスロット。
その全部をひっくるめた“成功”でなければ、
彼女は満足してくれない気がする。
(……条件、どんどん上方修正されてない?)
苦笑混じりのツッコミを心の中で入れながらも、
そのハードルが高ければ高いほど、
飛び越えたいという衝動も強くなっている自分に気づく。
耳元から、そっと気配が離れていく。
氷見は、何事もなかったように半歩下がり、
カップに口をつけた。
「……悪くない。
ちゃんと、“濃いめ”になってる」
「それは何よりです」
「じゃあ、あとは——」
視線が一瞬だけ、正面からぶつかる。
会社の中で、許されている限界ぎりぎりの、
短いアイコンタクト。
「——本番で、薄めないことね」
それだけ言って、彼女は踵を返した。
ドアの自動センサーが反応し、静かな電子音を鳴らす。
氷見の背中がフロアの明るさの中へ消えていくまで、
佐伯は、その場から動けなかった。
残された給湯室の空気には、
コーヒーと、さっきまでの囁き声の余韻が、薄く漂っている。
(……セキュリティホール、ってレベルじゃないな)
会社のルールというファイアウォールに、
小さな裏口をひとつ開けられたような感覚。
それを「塞ぐ」ことなんて、もう考えられない。
むしろ、その裏口から何度でも出入りできるように、
自分の側のアクセス権を、どうやって維持するか——
そんなことばかりを考えてしまう。
紙コップをもう一つ取り、新しいコーヒーを淹れる。
今度は、自分の分。
さっきより、ほんの少しだけ濃いめにしてみる。
(会議の成功で払え、か……)
悪くない条件だ。
彼女の耳元で囁かれた“請求書”を思い出しながら、
佐伯は紙コップを片手に、給湯室を後にした。
フロアのざわめきが、さっきよりも少しだけクリアに聞こえる。
会議室へ向かうその背中は、
ほんの少しだけ、さっきより深く呼吸をしていた。
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次回は20時更新です。お楽しみに。




