非同期通信のすれ違い
クライアント会議まで、残り三日。
オフィスの空気には、締切特有のピリつきと、どこか高揚した熱が混ざっていた。
モニターには、最終版に近い資料のスライド。
左上には社名ロゴ、右下にはページ番号。
その真ん中に並ぶ箇条書きを、佐伯は一行ずつ睨みつける。
(ここで数字をもうひと押し立たせたいんだよな……)
エビデンス用のグラフを差し替えるか、断ち落とすか。
判断を迷って、つい隣の島に視線を滑らせる。
氷見綾香は、いつもの姿勢でキーボードを叩いていた。
社内検証用のテストログを並べているのか、
モニターの画面は、数字とステータスの小さな文字で埋まっている。
黒髪をまとめたうなじ。
ジャケットの襟元から覗く白いブラウス。
手首から指先へと伸びる線。
あの手が、ノートPCのタッチパッドから自分の手の甲へと滑っていった夜の感触が、不意に蘇る。
(……集中しろ。会議が本番だろ)
自分にツッコミを入れ、カーソルを数ページ先へ送った、そのときだった。
「氷見さん、ちょっといい?」
正面から、別部署の男の声が飛んできた。
顔を上げると、営業部のスーツ姿が一人、氷見のデスクの前に立っている。
ネクタイを緩め、片手にはペットボトルのコーヒー。
人懐っこい笑顔を乗せた、いかにも“話しかけ慣れてます”という顔だ。
「さっきの仕様の件、ありがとう。すげー助かったわ」
「いえ。そちらの要件定義がきちんとしてたからです」
氷見は椅子を半回転させ、淡々と応じる。
それだけなら、よくある社内の会話。
問題は、その次の一言だった。
「もしよかったらさ、このプロジェクト終わったら、一回ご飯でも行かない?
打ち上げってほど堅くなくていいんだけど。
氷見さんと、もうちょっと話してみたいなって」
その言葉は、空気を挟んで、佐伯の耳にもはっきり届いた。
(……うわ)
脳内で、何かがカシャ、と音を立てて固まる。
昼下がりのフロア、他の島では誰かが電話を取り、誰かが資料を印刷している。
そんな日常のざわめきの真ん中で、そこだけが妙に鮮明なスポットライトに照らされたみたいだった。
氷見は、一拍だけ黙る。
それから、ごく短く息を吸った。
「そのお誘いには、乗れません」
表情は、静か。
声も、感情を削ぎ落としたようにフラット。
「プロジェクトの打ち上げなら、チーム単位で企画してください。
個別の会食は、お断りしています」
「え、ああ、そうなんだ。
いや、ごめんね、変な誘い方して」
「お気になさらず」
そこで会話は、ぴたりと終わる。
相手の営業は、気まずそうに笑いを残して、自分の島へと戻っていった。
会話の内容だけ見れば、“冷たく断った”で終わる話。
仕事の場での線引きとしては、むしろ真っ当なくらいだ。
――それでも。
(……個別の会食は、お断り、ね)
喉の奥のどこかに、小さな棘が刺さったような感覚が残る。
誰に対してもそうなのか。
それとも、相手と状況によるのか。
自分は、あのマンションに二度も行って、コンビニでプリンまで買わされているというのに――
そのギャップが、妙に意識に触った。
モニターに視線を戻しても、文字がうまくピントに合わない。
(……なんだ、この感じ)
答えは分かっている。
ただの、嫉妬だ。
他部署の男の「もっと話してみたい」という一言に、心が勝手に反応した。
その反応速度の速さに、自分で呆れる。
氷見がきっぱり断ったのなら、それでいいはずだ。
実際、彼女は相手の笑顔などまるで気にしていない様子で、すぐに画面へと視線を戻した。
なのに、胸の奥ではずっと、小さなノイズが鳴り続けている。
(バカみたいだな、俺)
自嘲気味に息を吐き、残りのページを黙々と仕上げた。
その日、氷見とは業務連絡以外、ほとんど目を合わせなかった。
◇
自宅に戻ると、時刻は二十二時を回っていた。
ワイシャツを脱ぎ捨て、シャワーを浴びる。
熱い湯で頭を冷やしたはずなのに、胸のもやは、思ったほど薄れない。
ソファに沈み込み、ノートPCを開いて資料の最終チェックをしながらも、
昼間の光景がリピート再生される。
営業の男の、軽い笑顔。
氷見の、冷静な拒絶。
そのどちらにも、自分は関係ない。
職場での彼女は、誰に対しても公平で、プロフェッショナルで――
自分だって、その線引きに何度も助けられてきた。
(それでも、ああいう誘いが飛ぶ対象ではあるんだよな、当たり前だけど)
当たり前の事実が、妙に堪える。
自分が今、その「対象」の一人に入っているのかどうか。
彼女の中の優先順位で、どのあたりのスロットに刺さっているのか。
そんな“ランキング”みたいな発想は、普段の自分なら鼻で笑い飛ばしているはずなのに、
今夜に限っては、やけに気になった。
ノートPCの画面を閉じ、テーブルの上に放り出していたスマホを手に取る。
(……連絡、してみるか?)
メッセージアプリを開きかけて、指が止まる。
今日の自分は、間違いなく「面倒くさいモード」に入っている。
この状態で、半端なテンションのスタンプを送っても、
自分でも何が本音で、何が当てつけなのか、整理がつかない気がした。
画面をそのまま伏せ、天井を見上げる。
部屋の中は静かだ。
氷見の部屋とは違う、ひとり分だけの温度と湿度。
(非同期通信って、こういうとき便利なはずなんだけどな)
送りたい言葉を、送れるタイミングで送れる。
相手の都合を邪魔しない。
タイムラグが、クッションになってくれる。
そのはずなのに、今はその“ラグ”が不安要素として重くのしかかってくる。
自分がメッセージを送らなくても、彼女から何か来るとは限らない。
そもそも、彼女は今、残業でまだ会社にいるかもしれないし、
別の何かをしているかもしれない。
そう考え始めると、途端に胸の奥がざわざわし始める。
(めんどくせえな、ほんと)
思考のループを強制終了するように、目を閉じた、そのとき。
テーブルの上のスマホが、ブル、と短く震えた。
「……え」
反射的に手を伸ばす。
画面には、見慣れた名前。
『氷見』
さっきまで躊躇していた指が、今度は勝手にロックを解除していた。
表示されたメッセージは、たった一行。
《今日の夕方、変な顔してたわね》
「っ」
心臓が、一瞬だけ間違ったリズムを刻む。
(見られてた……)
自覚のないところまで含めて、
彼女は相変わらずログをきっちり取っていたらしい。
慌てて返信ボックスを開きかけて、いったん止まる。
不用意に言い訳を並べれば、余計に“面倒くさい”感じが滲む。
でも、スルーするのも違う。
数秒迷ってから、指先が動く。
《ちょっと、処理落ちしてただけですよ》
仕事の話に偽装しながら、本音を薄める。
送信ボタンをタップした瞬間、
「既読」の文字が、あっという間に表示された。
続けざまに、二つ目の通知が落ちてくる。
《心配しなくても》
一度そこで途切れ、数秒のラグ。
非同期通信特有の“間”が、妙に長く感じられる。
次に表示されたのは――
《私の予定表に
割り込み処理は入れさせないから》
文字だけなのに、彼女の声色と間合いが、そのまま頭の中で再生される。
「……」
胸の奥で、さっきまで暴れていたノイズが、すっと静かになった。
予定表。
割り込み処理。
仕事用のメタファーで、きれいに言い換えられているけれど、
言っている内容は、かなり直接的だ。
(つまり――俺との時間に、他の誰かをねじ込ませる気はない、ってことだよな)
昼間のあの場面を、きちんと認識した上で。
自分がそれを気にしていたことも、すべて織り込み済みで。
それでも「大丈夫」と言い切るための文言を、
彼女なりの語彙と比喩で送ってきた。
非同期通信の“ラグ”が、今はやけに優しく思える。
昼間のモヤモヤと、今この瞬間のメッセージが、
数時間のタイムスタンプを挟んで、きれいに接続されていく感じがした。
《さっきの営業さんのこと、見えてました?》
半分確認、半分はあえての自白。
送信すると、またすぐに「既読」がつく。
《あんなに分かりやすく誘われたら、
視界から除外する方が難しいわ》
淡々とした返し。
その次の一行は、ほんの少しだけ、打ち込むのに時間がかかったようだ。
《でも、あれを“気にして処理落ちしてる”佐伯くんの顔の方が
よっぽど目立ってた》
「……うわ」
ソファの背もたれに、思わず頭を預ける。
図星すぎて、笑うしかない。
さらに追撃が届く。
《私は、自分で決めたスケジュールは変えない。
今の優先度のトップは、このプロジェクトと――》
そこまで読んだところで、メッセージが一瞬途切れる。
入力中を示す小さなアイコンが、数秒だけ点滅しては消える。
そして、ようやく現れた続きは。
《――借金回収》
「……」
思わず、吹き出しそうになって、堪えた。
借金。
利息。
返済計画。
あの夜から続いている“ごっこ”を、ここであえて差し込んでくるあたりが、
彼女なりの照れ隠しなのだと分かる。
「あなたとの時間」と、ストレートに書く代わりに。
借金という体裁を被せて、
優先順位のトップに据えていることだけ、さらりと伝えてくる。
その器用さと、不器用さが、同時に胸を締めつけた。
《じゃあ、その借金、これからも延滞しないようにがんばります》
とりあえず、そう返す。
すぐに、短い返信が落ちてきた。
《延滞してもいいわよ》
また数秒のラグ。
《その分、利息、上乗せするから》
文字だけなのに、
その「利息」という単語の奥に、
仕事以外の色が薄く滲んでいるのが分かる。
(……ほんと、ずるい言い方するよな)
苦笑しながらも、胸の中では、さっきまで沈みかけていた何かが、
再びゆっくりと浮上していく。
クライアント会議。
資料の精度。
当日、どれだけ滑らかに説明を回せるか。
それら全部が、
「氷見の“スケジュール”のトップに並んでいる」という事実とセットで、
急に鮮やかな意味を帯び始める。
(だったら、こっちも処理速度上げないとな)
スマホをテーブルに置き、
再びノートPCの電源を入れる。
非同期通信で行き違った感情は、
何往復かのメッセージで、ちゃんと同期が取れた。
今度は、“同期通信”で成果を積み上げる番だ。
画面に映るスライドの一枚一枚が、
彼女と共有している「予定表」の一部なのだと思えば、
深夜の作業も、悪くない。
キーボードを叩く指先に、さっきまでの重さはもうない。
メッセージアプリの画面には、最後に届いた一行が残っている。
《割り込み処理は、私が許可したものだけ》
その“許可”の枠に、自分が確かに含まれているという実感を抱きながら、
佐伯は、次のスライドの構成案を組み立て始めた。
――数日後、その会議室で並んで座る二人の姿を、
ほんの少しだけ鮮明に思い描きながら。
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次回は明日の8時更新です。お楽しみに。




