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第八章 待てない理由

12月の夜の街は、雨に濡れていた。

街灯の光がアスファルトに滲み、二人の影を細く引き伸ばしていた。


一花は傘も差さず、駅前の自販機の前で立ち尽くしていた。

その手には、スマホが握られていた。画面には、また新しい投稿。


「如月くんと一花、まだ続いてるらしい」

「学校に来る神経がすごい」

「もう見てられへん」


言葉は刃のように、心を切り裂いてくる。


隣に立つ恭平も、無言だった。

彼の拳はポケットの中で固く握られていた。


「……一花」


その声に、一花は顔を上げた。

目の奥に、涙がにじんでいた。


「うち、負けへんって言ったのに……もう、限界かもしれん」


「……逃げるんか?」


「ううん。逃げるんやない。守るんや。自分のことも、恭平くんのことも」


恭平はしばらく黙っていたが、やがて静かにうなずいた。


「……わかった。じゃあ、俺も一緒に逃げる。誰にも邪魔されへん場所まで」


「ほんまにええの?」


「ええよ。負けへんって言ったやろ? これは、俺らの戦い方や」


二人は目を合わせた。

その瞳の奥には、まだ消えていない火が灯っていた。


行き先は決まっていない。

でも、今はただ――この場所から離れたかった。


誰にも見つからない場所で、もう一度、笑える日を信じて。


---

二人は、家族の目をかいくぐって準備を始めた。

貯金箱を開け、小銭や少しの紙幣を財布に入れる。

恭平はアルバイトの給料も少しずつ忍ばせた。

大きな荷物は持たず、地味な服に着替える。


「リュックは軽めでええな」

「うん。荷物は最小限にした」

「食べ物とか、後で買えるから心配すんな」

互いに確認し合う手つきには、初めて感じる緊張と希望が混ざっていた。

---

夜の街を抜けると、二人は駅に向かって歩き始めた。

街灯に照らされた歩道には、落ち葉が舞い、冷たい風が頬を刺す。

「寒いな……」

「でも、自由やと思うと、なんか暖かい」

一花は笑顔を見せたが、その目は覚悟に満ちていた。


駅のプラットフォームで電車を待ちながら、一花は小さく声を落とした。

「……怖い」

「俺もや。でも、一花と一緒なら……」

恭平の言葉に一花は頷き、手をしっかり握った。

二人の指が絡み合い、震えを抑えるように互いを支えていた。

---

電車に乗り込み、窓の外に流れる街灯を眺める。

背後には家族の灯が遠くに見え、過去の生活の全てが遠ざかっていく感覚があった。

「もう、戻れへんかもな」

「うん……でも、戻らん」

小さく頷き合う二人の心には、恐怖よりも強い決意が宿っていた。

---

移動中、一花は恭平に問いかけた。

「……この先、どうなるんやろ?」

「分からん。でも、二人で考えていこ」

「怖いけど……恭平くんと一緒やったら、大丈夫な気がする」

その言葉に、恭平は少し微笑んだ。

「俺もや。お前とおると、強くなれる気がする」


夜が深まるにつれ、街は静まり返り、電車の揺れが二人の胸を優しく叩いた。

窓の外の景色は暗く、未来も見えなかったが、互いの存在が光となり、進む道を照らしていた。

---

駅を降り、静かな道を抜ける。

小さな宿泊先を手配していたが、到着するまでの緊張は続いた。

「……着いたな」

「うん……ここなら、しばらく安心や」


鍵を開け、二人は部屋に入った。

外の冷たい風とは対照的に、室内には二人だけの時間が広がる。

一花は息を整え、恭平を見上げた。


「……怖かったけど、やっと少し安心できた」

「俺もや。一花と一緒におれるだけで、全部報われた気がする」


その夜、二人は小さな灯りの中で静かに座り、互いの手を握り続けた。

外の世界がどう動こうと、ここには二人だけの時間があった。

そして一花は心の奥で、小さな決意を繰り返した。


――たとえ世間が否定しても、誰に何を言われても、私は恭平くんと一緒に生きる。


それは無謀で、幼い選択かもしれなかった。

けれど二人にとって、それは唯一の道だった。


夜は深く、街は静まり返り、未来はまだ見えなかった。

けれど、二人は手を離さずに座り、共に歩む覚悟を胸に抱いていた。


最初に向かったのは、大阪郊外の機械組み立て工場だった。


恭平がネットで見つけた求人に、直接電話をかけた。


事情は話さず、「住み込みで働きたい」とだけ伝えた。


工場の社長・田村は少しの沈黙のあとで言った。


「働く気があるなら、それでええ。事情は聞かんとくわ」


工場は古びた倉庫のような建物だったが、中では黙々と働く人々の姿があった。


油の匂いと機械音が響く中、二人は作業服に着替え、初めての仕事に向き合った。


「これ、ネジ締めるだけやから、簡単やで」


年配の職人が、恭平に工具を渡しながら言った。


「はい、やってみます」


恭平は不器用ながらも真剣な表情で作業を始めた。


一花は部品の検品を任され、最初は戸惑っていたが、持ち前の几帳面さですぐに慣れていった。


「滝野さん、手ぇ早いな。助かるわ」


「ありがとうございます。頑張ります」


二人は必死に働き、日々の流れに身をゆだねていった。


朝は五時に起き、作業服に着替えて工場へ向かう。


昼はわずかな休憩時間を共にし、夜は疲れ切って布団に倒れ込む。


その生活が二ヶ月ほど続いた。


最初は逃げるように飛び込んだ場所だったが、次第に二人にとって安らぎの拠り所になっていった。


社長の奥さんは一花に料理を手伝わせながら、まるで娘のように接してくれた。


「一花ちゃん、味噌汁の味、ちょっと濃いかもな」


「えっ、ほんま? うち、濃いめが好きやねんけど……」


「そやけど、田村家は薄味派やからな。うちの旦那、血圧高いねん」


「そっか……じゃあ、次は気ぃつけますね」


笑い声が台所に広がった。一花は久しぶりに「家族のような温かさ」を感じていた。


恭平もまた、職人たちに少しずつ打ち解けていった。


「お前、仕事、だいぶ早なったな」


「ほんまですか? 嬉しいです」


「一花ちゃんに負けてられへんやろ」


「そんなん言わんといてや。うち、検品やし、力仕事は無理やもん」


そんなやりとりが、工場の空気を柔らかくしていた。


二人はようやく、自分たちの居場所を見つけられたように思えた。


だが、平穏は長くは続かなかった。


ある午後。


工場の門に、制服姿の警察官が現れた。社長が慌てて駆け寄る。


「どうされました?」


「すみません。未成年の行方不明者の件で、少しお話を……」


田村は一瞬だけ考え込み、それから落ち着いた声で応じた。


「ここはウチの工場や。働きに来とるのは大人ばっかりやけどなぁ」


「確認だけさせていただけますか」


「……そらしゃあないな。けど、働き手を疑う前に、その子らの名前なんていうのか教えて」


警察官が名簿を読み上げ始める。


その声を、事務所の奥で聞いた恭平と一花は顔を見合わせた。


「……来たな」


「どうするん?」


「逃げるしかない。今や」


田村は二人に目配せをし、小声で言った。


「裏口から出ぇ。電車乗って、遠く行き」


「……すんません」


「ええんや。若いときは、誰でも一度は走りたなるもんや」


一花は涙をこらえながら頭を下げた。


「ほんまに、ありがとうございました」


「気ぃつけてな。どこ行くかは聞かへんけど、無理はすんなよ」


その間も警察官たちは事務所の中を覗き込もうとしていた。


田村は「ちょっと待ってな、整理があるんや」と時間を稼いでくれた。


その隙に、二人は裏口から工場を抜け出した。


二人は急いで社員寮に戻り、荷物をまとめた。


そして駅へと急ぎながら、一花は息を切らしつつ言った。


「……間に合った.....」


電車がホームに滑り込んできた。その車両に乗り込む瞬間、二人は手を強く握り合った。


それは、誰にも邪魔されない未来への、小さな決意だった。


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