第七章 選んだ気持ち
夕食の食卓に、味噌汁の湯気がゆらゆらと立ちのぼっていた。
一花は箸を持ちながら、黙々と白いご飯を口に運んでいた。母・友恵の視線が、ずっと彼女のスマホに注がれているのを感じていた。
「……一花」
唐突に名前を呼ばれ、肩がびくりと揺れた。
「なに?」
「そのスマホ、しばらくお母さんが預かるわ」
友恵の声は落ち着いていたが、逆らえない威圧感を帯びていた。
一花は反射的に両手でスマホを握りしめた。
「なんで……? ちゃんと勉強もしてるやん」
「してへん。テストの点も落ちてるし、夜中まで触ってるやろ。余計な連絡ばっかりや」
「余計ってなに! あれは私にとって大事な……」
思わず強く言い返すと、友恵の箸がピタリと止まった。
「大事? あの子のこと、大事やって言うん?」
鋭い目が一花を射抜いた。
父は黙って新聞を読んでいたが、顔を上げずにただ息を吐いた。
「……せや。大事やよ。恭平くんは、私のことちゃんと考えてくれてる」
「笑わせんといて。一人前に恋や愛とか口にして……まだ高校生やのに」
「高校生やったら、好きになったらあかんの? お母さんも昔はあったんちゃうん?」
「一緒にすんな!」
母の声が食卓に響いた。
父がようやく新聞を畳んで「まあまあ」と口を挟もうとしたが、友恵はそれを遮った。
「一花、あんた今のままやったら受験に差し支える。将来も潰すことになる。親として止めるんは当然やろ」
「将来将来って……私の今はどうなるん? 私が幸せかどうかは関係ないん?」
言葉が熱を帯び、涙が滲んだ。
けれど母は冷たく椀を置いた。
「幸せ? そんなもん、親の言うこと聞いてれば自然に手に入るもんや」
一花は絶望的な気持ちになった。
母は自分を心配しているのか、それともただ「管理」しているだけなのか。
「私の幸せを決めるのは、親じゃなくて私や!」
「スマホ取り上げたって、私の心までは縛れへんから!」
一花はそう言うとスマホを胸に大事に抱え、食事を残したまま自分の部屋へと駆け上がった。
「ちょっと、待ちなさい!まだ話終わってへん!」
友恵の声を無視して一花は部屋の扉を乱暴に閉めた。
その夜、一花は布団の中でスマホを抱きしめながら声を押し殺して泣いた。
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翌日。放課後のチャイムが鳴り、クラスのざわめきが収まる頃。
一花は担任の田辺に呼ばれ、職員室に足を運んだ。
「滝野、ちょっと座りなさい」
机の上には進路指導の資料が広げられていた。
田辺は眼鏡を外し、ため息混じりに口を開いた。
「最近、学校でよく名前が出てるぞ。SNSも見たけど、あの……如月のことや」
「……」
「君のお母さんとも話をした。進路にも影響しかねんし、生活指導からも指摘が入ってる」
一花は唇を噛んだ。
「先生、私は悪いことしてへん。ただ好きになっただけや」
「好きになる気持ちは否定せんよ。でもな、世の中はそう簡単やない。周りからどう見られるか、将来どう響くか……考えなあかん」
「……周りの目のために、好きな人と別れろってこと?」
「そうは言わんが……結果的にそうなるんかもしれんな」
一花は椅子を蹴るように立ち上がった。
「嫌です。私は恭平くんと別れへん!」
田辺は驚いた顔をしたが、すぐに諭すように声を落とした。
「気持ちは分かる。けど、今は冷静になりなさい。感情で突っ走っても、傷つくのは自分や」
一花は震える声で答えた。
「もう傷ついてるよ……毎日が戦いなんや」
夜。
恭平はリビングのソファに腰を下ろし、スマホを見つめていた。
画面には、まだ消されていない投稿。
一花が自分のバイクの後ろに乗っている写真。
加工されたスタンプ。
コメント欄には、悪意のある言葉が並んでいた。
「如月くんって、見る目ないよな」
「一花って、あんな顔して男に媚びるタイプやったんや」
「美咲ちゃんの方が似合ってたのに」
恭平は画面を伏せ、片手で顔を覆った。
(俺のせいや……)
昼休みの一花の姿が、頭に浮かぶ。
俯いて、パンを食べる手が止まり、誰とも目を合わせようとしなかった。
(守るって言ったのに……)
その言葉が、胸に重くのしかかる。
「……お兄ちゃん」
智恵美が立っていた。
目には涙が浮かび、手には例のSNSが表示されたスマホが握られていた。
「お願いやから……一花さんと会わんといて! お兄ちゃんが炎上してるのん見とうない」
恭平は驚いたように顔を上げた。
「智恵美……」
「私、前のお兄ちゃんが好きやったんよ。笑ってくれて、優しくて……でも今は、ずっと苦しそうにしとるやん。家でも、黙ってスマホばっか見て……」
智恵美は兄の手を掴み、必死に訴えた。
「一花さんといると、お兄ちゃんが遠くなる気がする。うちのこと、もう見てくれへん気がする」
恭平は何も言わず、智恵美の頭を撫でそっと抱きしめた。
小さな肩が震えていた。
その背後から、兄・真宙の冷たい声が落ちた。
「お前のせいで家族まで白い目で見られるかもしれんのやで。ええ加減にせなあかんのとちゃうか」
空気が凍りついた。
恭平の拳が小さく震えた。
言い返したい言葉が喉元まで出かかったが、声にはならなかった。
母は台所で黙ったまま食器を洗っていた。
誰も、誰の目も見ようとしなかった。
家の中に、沈黙だけが満ちていた。
数日後の夜。
一花はようやく母の目を盗み、家を抜け出して公園に向かった。
街灯の下、待っていた恭平の顔は疲れ切っていた。
「恭平くん……」
「一花……大丈夫か?」
「友達にも見捨てられて、先生にも止められて……お母さんには危うくスマホまで取り上げられかけた」
一花の声は震えていたが、その瞳は真っすぐだった。
「……でもね、私は負けへんよ」
恭平は横顔を見つめた。
「負けへん……?」
「うん。もうこれ以上、大事なもん奪われたくない。誰に何言われても、うちは絶対に離れへん」
その言葉には、震えながらも確かな意志が宿っていた。
「うちは……私の気持ちを守りたい。恭平くんとおる時間も、笑った顔も、全部うちの宝物やから」
一花の言葉を聞き終えると、恭平は奥歯を噛みしめた。
拳を膝に押し当て、俯いたまま小さく息を吐く。
「……一花。やっぱり俺が動くわ」
「え?」
「噂を流したやつ、突き止めて黙らせたる。お前がこれ以上傷つけられるんは、もう我慢できひん」
そう言って立ち上がろうとした瞬間、一花が慌てて腕を掴んだ。
その力は細いのに、不思議と強かった。
「あかんて、恭平くん」
「なんで止めるんや! このままやったら、お前が一人で全部背負うことになるやろ!」
「……それでも、うちが決めたんや。守られるだけやったら、みんなの言葉に負けたことになる」
一花は必死に言葉を繋ぐ。
街灯の明かりに照らされたその横顔は、震えながらも真剣だった。
「だから……お願い。恭平くんまで傷ついてほしない」
沈黙の中で、遠くの車の音だけが響く。
恭平は握った拳をゆっくりほどき、悔しそうに息を吐いた。
「……ほんま、お前は強すぎるわ」
その声は絞り出すように低かった。
動くことを断念した彼の視線の先で、一花の手がまだ彼の腕をしっかりと握っていた。
「強ないよ。怖いよ。毎日、教室入るのも、スマホ見るのも……でも、逃げたくないねん」
恭平はポケットからスマホを取り出し、画面を見せた。
そこには、まだ消されていない投稿。
一花の後ろ姿。バイク。コメント欄の悪意。
「これ見て、俺……めっちゃ悔しかった。守るって言ったのに、何もできてへん」
一花は首を振った。
「守ってくれてるよ。こうして隣にいてくれるだけで、うちは救われてる」
恭平はそっと一花の手を握った。
「……じゃあ、俺も負けへん。一花のこと、絶対に守る」
二人の手の温度が、夕闇の空気の中で確かに重なった。




