第五章 距離が縮まる時
翌朝の教室は、まだ少し静かだった。
窓から差し込む朝の光が、机の上に淡く広がっている。
一花はいつもより少し早く登校し、自分の席に鞄を置いたあと、ふと後ろを振り返る。
恭平の席はまだ空いていた。
(……まだ来てへんか....)
昨日の帰り道、バイクの後ろで感じた風と、彼の背中の温もりが、まだ胸の奥に残っていた。
そのとき、教室の扉が静かに開く。
「……おざーっす!」
低い声に振り向くと、恭平が教室に入ってきた。
ヘルメットは持っていない。制服の襟元を少しだけ整えながら、無言で席に向かう。
一花は立ち上がり、彼の席のそばまで歩み寄る。
「昨日、ありがとな。めっちゃ楽しかったわ」
「……そうか」
「うん。風が気持ちよくて、景色も綺麗で。なんか、ずっと乗ってたいくらいやった」
恭平は少しだけ目を伏せる。
「……危ないから、ほんまはあかんねんけどな」
「でも、如月くんやったから安心できたんやで」
一花の言葉に、恭平はわずかに口元を緩める。
「……そない言われると、悪い気せぇへんな」
「ふふ。もっと喋ってくれたら、もっと嬉しいけどな」
「……俺、喋るん苦手やし」
「知ってる。でも、昨日みたいに素直なこと言ってくれると、めっちゃ嬉しいんよ」
恭平は少しだけ視線を落とし、机の端を指でなぞる。
「……お前とおるときだけや。あんなこと言えるんは」
一花は驚いたように目を見開き、それから柔らかく微笑む。
「そっか。じゃあ、これからも一緒におってくれる?」
「……考えとく」
短い返事。でもその声には、昨日とは違う、少しだけ温もりが混ざっていた。
教室の空気はまだ静かだったが、二人の間には確かに、昨日よりも近づいた距離があった。
一花は席に戻りながら、心の中でそっとつぶやく。
(……なんか、ほんまにちょっとずつやけど、如月くんのこと、知れてる気がする)
恭平もまた、机に座りながら、窓の外に目を向ける。
朝の光が差し込むその先に、昨日の夕暮れとは違う、新しい一日が始まっていた。
秋の風が、校舎の窓を静かに揺らしていた。
十月も下旬に入り、朝晩の冷え込みが少しずつ肌に染みるようになってきた。
一花は、教室の窓際で手を止め、外の空をぼんやりと眺めていた。
雲ひとつない青空。けれど、心の中には、夏に灯った小さな火が、今も静かに燃え続けていた。
あの日、バイクの後ろに乗せてもらった帰り道。恭平の背中に感じた温もり、風に溶ける彼の短い返事。
あれから何度も思い出しては、胸がきゅっと締めつけられるような感覚に襲われていた。
(あれって……なんやったんやろ)
ただの送迎。
そう言ってしまえばそれまで。
でも、一花にとっては違った。あの時間は、何かが始まったような気がしたのだ。
文化祭まであと一週間。
校内は準備に追われ、どこもかしこも慌ただしい。
一花のクラスは喫茶店をやることになり、彼女は装飾係として、毎日放課後まで残って作業に励んでいた。
「一花ー! そのリボン、もうちょい右や!」
声をかけてきたのは、同じ係の美咲。
明るくて世話焼きな性格で、一花とは中学からの付き合いだった。
「これぐらいでええ?」
「うん、バッチリ!」
脚立から降りた一花は、汗を拭いながら窓の外に目をやった。
中庭では、別のクラスがステージの骨組みを組み立てている。
その中に、木材を肩に担いで歩く恭平の姿があった。
(……やっぱり、かっこええな)
無口で不器用。
でも、誰よりも真面目で、黙々と作業をこなす姿に、一花は目を奪われていた。
「何見てるん?」
美咲が背中を小突いてくる。
「えっ、べ、別になんも見てへんよ」
「ふーん? でもさ、一花って最近、ちょっと変わったよな。なんか、柔らかくなったっていうか」
「え……そうかな」
「うん。なんか、いい感じやで」
美咲の言葉に、一花は少しだけ頬を赤らめた。
文化祭当日。校門には色とりどりの飾りが揺れ、来場者の笑い声が響いていた。
一花のクラスの喫茶店も大盛況で、彼女はエプロン姿で接客に追われていた。
「いらっしゃいませー! こちら空いてますよ!」
笑顔で案内しながらも、一花の視線は時折、窓の外へと向かっていた。
体育館では、午後から行われるバンド演奏の準備が進んでおり、恭平が裏方として動いているのが見えた。
(ほんま、頼りになる人やな……)
しばらくすると、教室のドアが開き、恭平が顔を出した。
「一花」
「え、うち?」
「ちょっと手ぇ貸してくれへんか。ステージの布、うまくかからんくて」
「うん、行く!」
エプロンを外し、一花は恭平の後を追った。廊下を並んで歩く距離が、なぜか少しだけ特別に感じられた。
体育館のステージ裏。
木枠にカラフルな布を垂らす作業は、思った以上に手間がかかった。
「この角、持っててくれるか」
「うん」
二人で布を広げると、ふわりと一花の髪が恭平の腕に触れた。
「……すまん」
「え、ううん。大丈夫」
沈黙が流れる。一花は、布を押さえながら、思い切って口を開いた。
「如月くん、この前のバイク……ほんまに嬉しかったんよ」
「……そうか」
「うん。あれからずっと、なんか気になってて。如月くんのこと、もっと知りたいって思った」
恭平は手を止め、一花の方を見た。視線が交わり、一花の心臓が跳ねる。
「……俺、あんま器用やないし、人付き合いもうまない。でも……お前がそんなん言うてくれるん、嬉しいわ」
「ふふ、照れてる?」
「うるさいわ」
そっぽを向いた恭平の耳が赤く染まっていた。
夕方。バンド演奏が始まり、体育館は歓声に包まれていた。
一花は片付けの合間にステージを見に行き、観客の中から恭平の姿を探した。
照明の中、彼は機材を運びながら、時折ステージの様子を確認していた。
曲の合間、ふと客席に目を向けた恭平の視線が、一花と重なった。
一花は笑顔で手を振る。恭平は表情を変えなかったが、その視線は一瞬だけ止まった。
演奏が終わり、一花はステージ裏へ向かった。
「如月くん!」
「……一花か」
「さっきの働きっぷり、すごかったなぁ。めっちゃかっこよかったで」
「……大げさや」
「ほんまやって。うち、なんか胸ドキドキしたもん」
「……お前な、簡単にそんなん言うなや」
「え、なんで?」
「勘違い、してまうやろ」
「……勘違いちゃうよ」
その一言に、恭平の動きが止まった。
しばらくの沈黙。
体育館のざわめきが遠く感じられる。
「一花……」
「なに?」
「お前とおると……なんか、落ち着くわ。今まで、こんな気持ちになったことあらへん」
一花の頬が赤く染まり、胸が熱くなる。
「……うちもやで」
二人の距離が自然と縮まった。
その瞬間、誰かが「片付け始めるぞー!」と声を上げ、慌ただしく人が動き始めた。
二人は慌てて離れたが、心の奥には確かに同じ感情が芽生えていた。
数日後、放課後の校舎裏。
文化祭が終わり、日常が戻ってきた放課後。一花は恭平に呼び出され、校舎裏で向かい合っていた。
空は高く澄み、風は少し冷たくなっていた。
「……文化祭のときのこと、ずっと考えとった」
「うちもやよ」
「……俺、正直怖いんや。踏み込んでええんかどうかって。でも――」
言葉を切り、恭平は深呼吸した。
「でももう……自分の気持ち、ごまかせへん。一花、俺……お前のこと、好きや」
一花の目に涙がにじんだ。
「……待ってたんやで、その言葉」
「……ほんまか」
「うん。如月くんと一緒におりたい。どんなときも」
恭平は不器用に笑い、一花の頭を優しく撫でた。
「……これから頼むわ」
「うん、こっちこそ」
その瞬間、二人の心はしっかりと繋がった。
曇り空の下、涼しい風が吹き抜ける。
あの日と同じ風が、今は二人を包み込むように優しく流れていた。




