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エピローグ 風の彼方へ

――60年後 ――


秋の空は高く澄み渡り、木々の葉は金色に染まり始めていた。


その日、一花の葬儀は静かに、穏やかに執り行われていた。


式場には親族や友人たちが集まり、やわらかな光が薄く差し込んでいる。


陽翔は喪服に身を包み、母の棺の前に静かに立っていた。


六十代半ばの穏やかな顔つきは、一花の面影をどこかに宿していた。


その隣には、妻の花音がそっと寄り添い、彼の手を握っている。


祭壇には、一花の遺志で選んだ一枚の写真が飾られていた。


若き日の一花と恭平が、夕陽の中で並んで笑っている。その微笑みは、時を越えてもなお温かく、優しい。


やがて、親族がゆっくりと棺の前へ進んだ。


最初に歩み出たのは遥斗だった。


彼は深く頭を下げ、静かに白い花を一輪そえた。


「……一花さん、ゆっくり休んでください」


そう小さくつぶやく声は、長い年月を義姉として見守ってきた敬意と哀悼を帯びていた。


その後、妻の智恵美が一歩前へ進む。


白い花を握る手は、歳を重ねてもなお、あの日の少女のまま震えていた。


棺にそっと花を置いたあと、彼女は微笑むように、しかし涙声でつぶやいた。


「一花さん……最後までお兄ちゃんを想い続けてくれて、ほんまにありがとう」


その声は、祈りのように静かに響き、胸に深く残った。


陽翔はその光景を、まっすぐ見つめていた。


彼はゆっくり棺へ歩み寄ると、手に持っていた一冊の古びた日記帳をそっと置いた。


角は擦り切れ、色褪せたページには、何度もめくられた跡が残っている。


「この日記帳……母さん、ずっと大事にしてたよね」


「裏の家が火事になって避難したときも、台風で避難指示が出たときも、何よりも一番に持ち出してた。俺が子どもやった頃から、ずっと……」


その言葉は、遠い日々を思い出すように静かに続く。


一花の人生は、いつも強さと優しさで満ちていた。


若い頃、思い切って取得したバイクの免許。


大切な日記帳と、恭平との写真をタンクバッグに入れて、


海沿いの道や、山のワインディングロードをゆっくり走った。


二人で見るはずだった景色を、ひとつひとつ、自分の目で確かめるように。


ナカムラベーカリーに勤めはじめた頃、直営店は、まだ店も小さく、毎日が戦いのようだった。


だが、彼女の努力と、社長との二人三脚の経営は実り、ナカムラベーカリーの直営店は、やがて十店舗を構える人気店へと成長していった。


一花が焼いていた食パンの香り、商品開発のために夜遅くまでキッチンに立つ姿——


そのどれもが、一歩ずつ未来を切り拓いてきた証だった。


陽翔は、棺に置いた日記帳をじっと見つめる。


その横顔は、まるで母の強さと優しさがそのまま形になったようだった。


花音はそっと陽翔の背に手を添え、小さく囁いた。


「一花ママ、やっと逢えるね」


棺の中の一花は、静かに眠っていた。


その顔は穏やかで、まるで夢を見ているようだった。


そのとき――


誰にも見えない“風のような存在”が、式場の隅に現れる。


それは、若き日の恭平だった。


半透明の姿で、穏やかな笑みを浮かべながら、一花に手を差し伸べる。


棺の中の一花が、ゆっくりと高校生の姿に戻っていく。


白髪も皺も消え、制服のリボンが風に揺れた。


その瞬間、一花の胸に記憶がよみがえる。


――放課後の校庭、笑い声、夕焼けに染まる二人の影。


――機械工場の油の匂い、恭平の手に残った黒い汚れ。


――パン工場で二人並んで働いた朝、焼きたての香りに笑い合った日。


――清掃会社で、朝のビルに響いたモップの音と、肩を寄せ合った静けさ。


――牧場で見上げた広い空、風に舞う草の匂い、引き離される瞬間の涙。


すべてが、二人をここまで導いた。


「……待ってたよ、一花」


「陽翔を立派に育ててくれてありがとう」


その声は、春の風が頬を撫でるように優しく響く。


「……うちも、ずっとあなたを想ってた」


二人は手をつないだ瞬間、光が降り注ぎ、桜の花びらが舞い始める。


式場の空気が静まり、誰も気づかないまま、世界が止まった。


ただ、風が吹き抜けた。


その風は、二人の笑顔を未来へ運ぶように――


陽翔はふと、窓の外に目を向ける。


秋の空は高く、雲ひとつない青が広がっていた。


その風の向こうに、母の笑顔が見えた気がした。


そのとき、一片の桜の花びらが、季節外れの奇跡のように陽翔の肩へ舞い落ちた。


陽翔はそっと指先でそれをつまみ、胸の奥に温かなものが広がっていくのを感じた。


『風になったあなたへ』を最後まで読んでくださり、本当にありがとうございます。


この物語は、愛する人を失った後も、その想いを胸に生き続ける人の強さと儚さを描きたいという思いから生まれました。

高校時代の二人の無邪気な笑顔、駆け落ちの日々、機械工場やパン工場での苦労、清掃会社での静かな夜、そして牧場での涙――そのすべてが、彼らの愛を形づくる大切な記憶です。


書き進める中で、何度も「本当にこの結末でいいのか」と自問しました。

しかし、恭平と一花の絆は、別れを超えて永遠に続くと信じています。

最後のシーンで二人が再び手を取り合う瞬間、私自身も胸が熱くなりました。


この作品を通して、誰かを深く愛することの尊さ、そしてその想いが時を超えて風のように残ることを、少しでも感じていただけたなら幸いです。


ここまでお付き合いくださった読者の皆さまに、心から感謝を申し上げます。

またどこかで、新しい物語をお届けできる日を楽しみにしています。


東雲 碧

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