第二部-第三十四章 伝えたかった想い
彼女は静かに如月家の玄関の前に立っていた。
今年二度目の訪問。
一花は、決断したことを伝えようと如月家を訪れた。
チャイムを鳴らすと、すぐに扉が開いた。
「よう来てくれたね」
幸代が、柔らかな笑顔で迎えてくれた。
その笑顔に、一花は胸が詰まりそうになった。
「お邪魔します」
「ばぁば、こんにちわ!」
陽翔が元気よく挨拶すると、幸代はしゃがんで目線を合わせた。
「陽翔、また来てくれてうれしいわ。お庭で真宙が待ってるよ」
「ほんま!?行ってくる!」
陽翔は靴を脱ぐと、ぱたぱたと庭へと駆けていった。
一花はその背中を見送りながら、深く息を吸った。
「座って。お茶、淹れるね」
幸代が台所でお茶の準備をしている。
「……前に言ってくださったこと、ずっと考えてました」
「うちと陽翔が前を向いていることが、いちばんやと思う、って」
幸代は、湯呑を手にしたまま、ゆっくりと頷いた。
「うん。陽翔の笑顔は、恭平が残してくれた宝物やから」
その言葉に、一花は目を伏せた。
「……うち、まだ迷ってる部分もあるんです。でも、今日来たのは……ちゃんとご報告したくて」
幸代は何も言わず、ただ静かに微笑んだ。
その微笑みが、言葉以上に一花の背中を押してくれた。
庭では、陽翔が真宙とシャボン玉を追いかけて笑っていた。
その笑顔を見て、一花の胸が少しだけ軽くなった。
そのとき、奥から足音が聞こえた。
振り返ると、智恵美が静かに立っていた。
一花は一瞬、言葉を失った。
智恵美も何も言わず、ただ一花を見つめていた。
そして、短く言った。
「……恭平兄ちゃんの部屋、来て」
それだけ言って、階段を上がっていく。
一花は、少しだけ躊躇した。
けれど、陽翔の笑い声に背中を押されるようにして、彼女のあとを追った。
二階の一番奥、右手の扉。
智恵美は扉を開けると、机の引き出しから布に包まれた何かを取り出した。
そして、無言で一花に差し出した。
一花は、震える手でそれを受け取った。
「……これ、兄ちゃんの日記」
それだけ言って、智恵美は部屋を出て行った。
一花は、静かに布をほどいた。
中から現れたのは、何の表紙もない、シンプルな日記帳だった。
ページをめくると、見慣れた筆跡が並んでいた。
丁寧で、少し癖のある文字。
それは、恭平のものだった。
『一花に会わない。連絡もしない。それが、母との約束だった。
けれど、胸の奥に溢れる想いを、どこかに置いときたくて。
不器用な自分なりに、言葉にして残すことにしようと思う。
多分、この日記は読まれることはないだろう。』
その一文を読んだ瞬間、一花の目に涙が溢れた。
ページをめくるたびに、恭平の想いが綴られていた。
『卒業式が終わったら、ようやく一花に会える。
待ち遠しくて、逢いたくて、逢いたくて、逢いたくて、話したくて。
彼女の声を聞きたい。笑顔を見たい。
“生まれてくる子”のことも、たくさん話したい。』
『“生まれてくる子”へ。男の子か、女の子かわからへんけど、
君に会える日が近づいてる。君のママは、世界で一番素敵な人や。
どうか、彼女を笑わせてあげてほしい。
君が生まれてくることで、彼女の世界が輝くように。』
一花は、声を押し殺して泣いた。
涙がぽつぽつと日記のページに落ちていく。
最後のページには、事故の前日の日付が記されていた。
『もう、限界や。
一花に逢いたい。
声が聞きたい。顔が見たい。逢いたい。
卒業式まで待つって約束したけど、もう無理や。
母さんごめん。
少しだけ、ほんの少しだけでええんや。
今日、行ってみることにする。
一花の顔が見たい。生まれてくる子に会いたい。
たとえ窓越しでもええから....
そして、明日から――』
その先は、もちろん白紙だった。
一花は、日記帳を胸に抱きしめた。
涙が止まらなかった。
けれど、その涙は悲しみだけではなかった。
恭平の想いが、確かに届いた。
彼がどれほど自分と陽翔を愛していたか。
そのすべてが、言葉になって残されていた。
そして、一花は静かに目を閉じた。
その瞬間、一花の中で何かが変わった。




