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第二部ー三十三章 風の記憶

如月家の二階。


階段を上がった先の一番奥、右手の扉の向こうに、恭平の部屋はあった。


智恵美は、しばらくその前に立ち尽くしていた。


手をかけるのが怖かった。


けれど、今日はなぜか、扉の向こうに兄の声が聞こえるような気がして、そっとノブを回した。


きぃ、と小さな音を立てて開いた扉の先には、三年前と変わらぬ風景が広がっていた。


カーテンは閉じられたまま、薄暗い室内。


けれど、窓の隙間から差し込む光が、埃の粒を静かに照らしていた。


「……ほんまに、あのときのままや」


智恵美は、そっと部屋の中を歩いた。


机の上には、恭平が最後に読んでいた本が伏せられたままになっていた。


ベッドの上には、彼がいつも使っていた毛布が丁寧に畳まれて置かれている。


幸代が、ずっとこの部屋に手をつけずにいたのだ。


まるで、恭平がいつでも帰ってこられるように――そんな母の想いが、部屋の隅々にまで染み込んでいるようだった。


「お母さんもまだ受け入れられてへんねや」


棚の上には、中学時代のトロフィーや、陽翔が生まれる前に買ったらしい育児雑誌。


その横には、色褪せた写真立て。


一花と並んで笑う兄の姿が、そこにあった。


机の引き出しを開けると、整然と並べられた文房具と、封筒が一通。


その奥に、薄い布に包まれた何かがあった。


智恵美は、そっとそれを取り出した。


布をほどくと、中から一冊の日記帳が現れた。


表紙には何も書かれていない。


けれど、手に取った瞬間、智恵美は確信した。


――これは、兄のものだ。


ページをめくると、見慣れた筆跡が並んでいた。


丁寧で、少し癖のある文字。


それは、兄が生きていた証そのものだった。


日付は、兄が北海道から連れ戻された日からあの事故の日まで書かれていた。


『一花に会わない。連絡もしない。それが、母との約束だった。

けれど、胸の奥に溢れる想いを、どこかに置いときたくて。

不器用な自分なりに、言葉にして残すことにしようと思う。

多分、この日記は読まれることはあれへんやろう。』


智恵美は、思わず息を呑んだ。


ページをめくる手が震える。


『卒業式が終わったら、ようやく一花に会える。

待ち遠しくて、逢いたくて、逢いたくて、逢いたくて、話したくて。

彼女の声を聞きたい。笑顔を見たい。

“生まれてくる子”のことも、たくさん話したい。』


『“生まれてくる子”へ。男の子か、女の子かわからへんけど、

君に会える日が近づいてる。君のママは、世界で一番素敵な人や。

どうか、彼女を笑わせてあげてほしい。

君が生まれてくることで、彼女の世界が輝くように。』


その言葉に、智恵美は膝をついた。


涙が、日記帳の上にぽつりと落ちた。


兄の声が、確かにそこにあった。


日記帳のページをめくるたびに、一花への想いと、“生まれてくる子”への愛が、途切れることなく綴られていた。


まるで、言葉のひとつひとつが、彼の心そのもののように。


――卒業式の日、ようやく再会できるはずだった。


――ようやく、家族として歩き出せるはずだった。


それなのに。


智恵美は、日記帳を胸に抱きしめた。


その胸の奥で、何かが崩れ落ちる音がした。


嗚咽が漏れるのを止められなかった。


兄の声が、言葉が、想いが、あまりにも優しくて、あまりにも切なくて――。


涙で滲む視界の中、彼女は震える手で再びページをめくった。


『一花の笑顔を思い出すだけで、胸がぎゅっとなる。

油の匂い漂う機械工場で、作業着姿で笑っていたあの顔。

焼きたてのパンの香りに包まれた工場で、粉まみれの手でくすっと笑った横顔。

清掃会社の窓越しに光を浴びながら、モップを握って見せた柔らかな笑み。

そして、夕焼けに染まる牧場で、風に髪をなびかせて子牛と戯れながら笑っていたあの瞬間。

どの表情も、言葉にできひんほど愛しくてたまらない。』


『“生まれてくる子”のことを考えると、自然と笑ってしまう。

名前、どうしようかな。

一花と一緒に考えたい。

どんな声で泣くんやろ。どんな目をしてるんやろ。

想像するだけで、胸がいっぱいになる。』


『一花は、ほんま強い人や。

でも、強がってるだけのときもある。

俺は、そんな彼女の弱さも全部、抱きしめたい。

守りたい。支えたい。

それが、俺の願いや。』


ページをめくるたびに、同じような言葉が繰り返されていた。


一花への想い。


“生まれてくる子”への愛。


同じ言葉ばかりなのに、読むたびに胸が締めつけられる。


兄がどれほどの想いを抱えていたのか、どれほどの未来を夢見ていたのか――。


そして、最後のページに記された言葉に、智恵美は目を凝らした。


そこには、事故の日の日付が記されていた。


『もう、限界や。

一花に逢いたい。

声が聞きたい。顔が見たい。逢いたい。

卒業式まで待つって約束したけど、もう無理や。

母さんごめん。

少しだけ、ほんの少しだけでええんや。

今日、行ってみることにする。

一花の顔が見たい。生まれてくる子に会いたい。

たとえ窓越しでもええから....

そして、明日から――』


そこまで書かれた文字が、最後だった。


その先のページは、白紙のまま。


智恵美は、日記帳を胸に抱きしめた。


「……兄ちゃん……」


涙が止まらなかった。


兄は、その日、一花に会いに行った。


ほんの少しだけ言葉を交わしたと、一花が話してくれた。


「元気か?」と声をかけて、「明日な」と笑って別れたと。


全部言葉にしたら、壊れてしまいそうだったのだろう。


母との約束も、一花との未来も。


その帰り道――未来を胸に抱いたまま、兄は事故に遭った。


その「明日」は、もう来ない。


その事実が、智恵美の胸を締めつけた。


けれど、兄の想いは、確かにここに残っていた。


言葉にならなかった言葉が、日記の中に息づいていた。


そしてそれは、誰かに届くことを、きっと願っていた。



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