第二部ー三十一章 幼子の願い
遥斗に告白された日の夜、胸の奥で波が何度も寄せては返っていた。
心は揺れている。
でも、その胸のざわめきに「恋愛」と決めつける事にはできなかった。
そして朝は、容赦なく訪れる。
「ママー! もう行くってばー!」
陽翔は玄関で靴を履いたまま、勢い余って扉に手をかけていた。
焦ると耳が真っ赤になる癖、恭平によく似ている。
「こら陽翔。まだやろ」
言いながら、一花は玄関の飾り棚に視線を向ける。
そこにある、一枚の写真。
恭平が笑っている。
「陽翔」
少しだけ厳しい声になった。
陽翔がくるりと振り返る。
「……パパに『いってきます』は?」
「あ……」
陽翔は写真の前にちょこんと立ち、小さな両手をぎゅっと合わせた。
「パパ、いってきます。きょう、いっぱいあそぶね」
写真の中の恭平は、永遠に同じ笑顔だ。
でも陽翔の声が届けば、笑ってくれてる気がする。
一花はそっと目を伏せる。
「よし、行こか」
手をつなぐ。
秋の空は高く澄み、冷たい風が頬をかすめた。
――恭平。
私は……ちゃんと前に進めてるんやろか。
保育園へ向かう道、陽翔は落ち葉を踏みしめてはしゃいでいた。
「ママ、きょうさぁ、花音ちゃんくるかな?」
「もちろん来るよ。なんでそんなこと聞くん?」
「だって昨日ちょっと泣いてたから。パパとケンカしたかもって思って」
子どもの言葉はときどき核心に触れる。
花音の父・智。
仕事と育児をひとりで抱え、懸命に笑っている人。
それでも、ふとした瞬間ににじむ孤独を、一花は知っている。
「大丈夫よ。花音ちゃん、強い子やもん」
「でもね、ママがいると笑うよ?」
一花は息を飲んだ。
陽翔は無邪気に笑って走り続ける。
小さいのに、ちゃんと見てる。
誰が誰を癒してるのか、子どもは一番知っているのかもしれない。
門をくぐった瞬間だった。
「いちかママぁぁぁ!!!」
泣きながら、花音が全力で抱きついてきた。
髪がばさっと揺れて、リボンがほどけている。
「いちかママがいいの!! いちかママがいいの!!」
「花音ちゃん、どうしたん?」
ぎゅっと抱きしめると、花音の小さな手が震えていた。
必死にしがみつく力は、痛いほど強い。
先生が駆け寄るが、花音は離れない。
「だめだよ花音ちゃん! ママはぼくのだよ」
横から陽翔が叫んだ。
正しい。でも、花音には刃になる言葉。
「やだ!! 花音のママになって!!」
その瞬間、走る靴音。
息を切らした智が姿を見せた。
「花音!」
スーツの袖はまくれ、片方のワイシャツのボタンが外れている。
寝不足の目、焦りと疲れがにじんでいた。
「花音、言ったよな。今日はママ来ないって」
「……花音のママ、もういないもん……! いちかママがいいの」
鋭く胸を刺す言葉。
智の表情が一瞬だけ凍りつく。
「花音。ママは……別の場所で生きてる。うちはうちや」
「でも!! でも!! 花音……あったかいのがいい!」
その言葉に、一花の喉がつまった。
花音の小さな拳は涙で濡れている。
一花はしゃがみ、優しく顔をのぞき込んだ。
「花音ちゃん。うちはね、陽翔のママなんよ」
「……うん」
「でもな、花音ちゃんのこと大好きや。だから、ぎゅーしたる」
花音は唇を噛み、そして泣きながらまた抱きついてきた。
その肩をそっと抱きしめる。
「……あったかい……」
花音がかすかに呟いた。
その声が、胸の奥でひっそり泣いている。
智は目を伏せ、拳をゆっくり握った。
責めているわけでも、羨んでいるわけでもない。
ただ、痛みを抱えた父の顔だった。
ようやく花音が先生に抱かれ、泣き声が園庭に溶けていった。
小さな後ろ姿が見えなくなる頃、智がぽつりと息をついた。
「……すみません。また、助けてもらいました」
「花音ちゃん、がんばってるだけです。寂しいとき、ありますもん」
「そうですね……」
智は苦笑したが、その笑いは脆かった。
壊れ物をそっと抱えるような表情。
「私、弁護士の彼女と結婚して……仕事も家庭もちゃんとやるって思ってた。でも、向こうはエリートで……私も仕事一筋で……」
言葉がゆっくり落ちていく。
「気付いたら、家に“安心”がなくなってました」
一花は黙って聞いた。
智の声は淡々としているけれど、奥にある後悔は深い。
「花音は見てたんでしょう。私たちの余裕のなさも、言い争いも」
一花は胸に手を当てた。
あの日、恭平と過ごした穏やかな時間。
ほんまに小さな幸せが、宝物みたいに溢れていた。
「一花さんみたいな人が家にいてくれたら」
静かで、真っ直ぐな告白。
でも一花の心は揺れるだけで、答えは掴めない。
「……そんな、うちは……」
「わかってます。急かしません。今日のこと、忘れなければそれでええです。」
智はそれだけ言い、深く一礼した。
風が吹く。
陽翔の笑い声が遠くで響く。
写真の中で笑う恭平。
手を伸ばせば触れそうな、あたたかい日々。
その隣で揺れる現在と未来。
――私は、どこへ歩いていくんやろ。
秋の空は高く澄み、風は優しいのに、胸の奥は少しだけ痛かった。




