第二部ー第三十章 秋風の告白
秋の空は高く、柔らかい光が街を包んでいた。
陽翔の手を握りながら歩く一花の胸は、前回のカフェの記憶と同じくらいにざわついていた。
「ママ、はやく! すべりだいーー!」
陽翔が駆け出す。
小さな背中に追いつきながら、一花はふっと息をつく。
スマホの通知が震える。
見ると、遥斗からだった。
『日曜、陽翔くんも一緒に公園行きませんか?』
また遥斗からのメッセージが光っている。
胸の奥がぎゅっとなる。
「……やっぱり、うち……」
指先が迷いのまま止まる。
深呼吸して、美咲に電話をかける。
「美咲、何度もごめん、またちょっと相談してええ?」
「お、どうしたん?ええで」
「……また、遥斗さんに誘われてん。今度は陽翔も一緒に、公園に行こうって」
「おお、ええやん!陽翔くんも楽しめるやろ?」
「うん……でも、うち行く気になれへんねん」
「またそんなこと言うて……あのな、一花。あんた、いつまでも恭平くんのこと引きずってたらあかんで。こないだのカフェ楽しかったんやろ?」
「……でも、罪悪感があって」
美咲は少し笑った。
「そんなん考えすぎやって。恭平くんもあんたの暗い顔見たないと思うで。陽翔くんも喜ぶし、気楽に行こ!くらいでええんやで。あんたが楽しむこと、誰も責めへんから」
「……ほんまかな」
「ほんまや。せやし、今日は背中押す役、うちがするわ。行く気持ちになれたら、行ったらええだけや」
一花は小さく息を吐いた。
少し肩の力が抜けて、心が軽くなるのを感じる。
「……わかった。じゃあ、行ってみよかな」
「それでええ!陽翔くんと一緒に楽しんでおいで」
電話を切ったあと、一花はスマホを握ったまま、すべり台ではしゃぐ陽翔をぼんやり見つめる。
落ち葉が舞う通りの向こうで、遠く小さな笑い声が聞こえる気がした。
――恭平、あなたやったら、なんて言うん?
問いは胸の奥で静かに渦を巻く。
でも今は、少しだけ前に踏み出す準備ができた気がした。
日曜、秋晴れの公園。
陽翔は滑り台を何度も滑り、落ち葉の上を駆け回る。
一花はベンチに腰かけ、ジャケットの襟を直しながら、その無邪気な笑顔を見守った。
「ほんまに元気やなぁ」
遥斗が少し離れた場所から微笑む。
黒のジャケットに落ち着いた雰囲気、優しい眼差し。
その誠実さに、一花の胸がまた小さくざわつく。
「陽翔くん、これやってみる?」
遥斗が持ってきたフリスビーを差し出す。
フリスビーを追いかけて駆け回る陽翔の笑い声が、公園の広場に響く。
一花はベンチに腰を下ろし、落ち着かない胸をそっと押さえた。
ふと、遥斗が持ってきたリュックを開ける音がした。
「そろそろ、お昼にしませんか?」
「えっ……あ、うん」
遥斗は照れたように笑いながら、小さなランチボックスを三つ並べた。
くすんだ木のベンチに、色とりどりの布包みが揃う。
「陽翔くん、こっちおいでー。お弁当やで」
「やったー!」
息を弾ませながら陽翔が戻り、ちょこんと一花の隣に座る。
遥斗は手際よく蓋を開けると、ほかほかご飯の香りと、ふんわりとした卵焼きの甘い匂いが広がった。
「……これ、全部作ってきてくれたん?」
「いや、そんな大したもんじゃ……。居酒屋のまかないで覚えたんです」
その声は少し照れたようで、けれど嬉しそうだった。
卵焼き、ミニトマト、鶏の照り焼き、色とりどりの野菜。
どれも丁寧で、ひとつひとつが温かさを帯びていた。
「陽翔くん、これ好きかなって。ウインナー、タコさんにしてみたんですけど」
「たこさん!!!」
陽翔の目がキラキラ輝く。
「い、いただきます!」
「……いただきます」
一花が箸を伸ばすと、卵焼きの甘さがやさしく口にひろがった。
「……おいしい」
思わずつぶやくと、遥斗は耳の先まで赤くなった。
陽翔はタコさんウインナーを嬉しそうに箸で突きながら、にこにこと笑っている。
その笑顔を見て、胸の奥がじんわりあたたかくなった。
――この空気、嫌いやない。
そんな言葉が胸の奥でそっと浮かぶ。
けれど、同時に心の奥がきゅっと痛んだ。
――恭平にも、こんな時間を……
見せたかった。
「一花さん?」
「あ……ごめん、ちょっと考えごとしてた」
曖昧に笑うと、遥斗は無理に深く聞かず、そっと視線を陽翔へ向けた。
「ねぇねぇ、つぎすべりだいね!」
「おー、行こう行こう」
陽翔は勢いよく立ち上がり、また走り出す。
遥斗は少し肩をすくめ、笑った。
そして、残された一花は、箸を握ったまま秋の風にそっと目を細めた。
――幸せの形に触れたときほど、痛くなるんやね、胸って。
けれど、それでも——
ほんの少し、前に進むための光がそこにある気がした。
笑い声が風に乗り、公園の空気を柔らかく震わせる。
一花はその姿を見て、心の奥の小さな灯が揺れるのを感じた。
けれど、胸の奥には別の声も響く。
――恭平……あなたやったら、どんなに良かったか......。
思わず手が震えそうになる。
この優しい時間の中で、恭平への想いは痛みと共に存在していた。
「一花さん」
突然呼ばれ、振り向くと遥斗が少し近づいていた。
表情は真剣で、しかし柔らかい。
「……陽翔くん、楽しそうですね」
「……うん。楽しそう」
言葉に詰まりながらも、素直に頷く。
陽翔の無邪気さが、彼の誠実さが、胸にじんわり染みる。
昼下がり、公園のベンチで座りながら、遥斗は少し俯いたあと、そっと目を上げた。
「一花さん……俺、一花さんのこと、好きです」
空気が一瞬止まったように感じた。
柔らかい秋の光の中で、彼の声は真っ直ぐに届く。
一花は言葉を探す。
陽翔が無邪気に笑っている。
その無邪気さに胸がぎゅっと締め付けられる。
「……えっと……」
声が小さく、震える。
「……うーん、そう……なんて言うか、うちは今、はっきり答えられへん気がする」
声が小さく、少しよそよそしい。
「うち……今は、ちょっと考える時間がほしいっていうか……」
遥斗は静かに頷く。
目を伏せ、短く息をつく。
でも、その口元には柔らかい笑みが浮かんでいた。
「そっか……無理に答えんでもええですよ」
一花は小さく息を吐き、曖昧に微笑む。
少しの沈黙のあと、陽翔が手を伸ばし「ママ、あっち行こ!」と笑う。
一花はその手を握り、深く息を吐いた。
帰り道、街路樹の落ち葉を踏みしめながら歩く。
夕暮れのオレンジが、影を長く引く。
遥斗は少し離れて、歩調を合わせている。
頭の中で、花音の父・智のことが浮かぶ。
あの人も、優しく真面目で、家族を守ろうとする人やった。
一花の心には何度も同じ疑問が、心の奥で繰り返し響いていた。
「……うちは、どうしたらええんやろ」
心の中で呟く言葉は、迷いのまま消えない。
答えはまだ、風に溶けてしまったままだった。
街灯の淡い光が二人の影を伸ばす。
冷たい風が頬をかすめ、髪を揺らす。
その中で、一花はただ歩き続けた。




