第二章 家族という風景
夕闇が街を覆い始めた頃、恭平は家の前にバイクを停めた。
夕陽はすでに沈み、冷たい影がアスファルトに長く伸びている。
街灯の柔らかな光が、濡れた道路の表面に反射し、ぼんやりと道を照らした。
エンジンを切ると、周囲の音が一斉に消えたように感じる。
代わりに耳に届くのは、自分の心臓の規則正しい鼓動だけだった。
低く、しかし確かなリズムが、胸の奥で静かに響く。
(……めっちゃ腹減ったな........)
無言のまま、恭平はバイクのスタンドを立てた。
家は二階建ての古びた木造だった。
白く塗られた外壁は、年月に削られ、ところどころ剥がれ落ちている。
軒先には風に揺れる洗濯物、庭の雑草は手入れされず、伸び放題のまま風に揺れていた。
ガレージは後から増築されたようで、壁の色も微妙に違っていた。
中にはバイクの整備用品が乱雑に置かれ、工具箱の蓋は半開き、オイルの匂いが微かに漂っている。
床にはタイヤの跡が残り、壁には古びたポスターが何枚か貼られていた。
まるで、時間が止まったまま、誰かの“好き”だけが息づいている場所だった。
だが、窓から漏れる光は温かく、生活の匂いをかすかに漂わせていた。
家族がこの中で笑い、泣き、日々を積み重ねていることを、光と影の対比が静かに語っていた。
ガラリ、と玄関の戸を開けると、勢いよく飛び込んできたのは、妹の智恵美だった。
高校一年生で、恭平と同じ学校に通う。
小柄で活発、いつも笑顔を絶やさない彼女は、無邪気な熱量で家の空気を変える存在だ。
「恭平っ! 遅いやん!」
その言葉と同時に、金髪に染めた肩までの髪を揺らしながら、恭平の胸に飛び込む智恵美。
恭平は少し後ずさり、戸惑いながらも抱きとめる。
「ちょ、重い……離れろや」
「えー、なんでなん? 久しぶりに一緒にご飯食べれるやんか!」
「久しぶりって……昨日も一緒に食べたやろ」
「昨日は途中でバイク磨きに行ってしもたやんか〜!」
智恵美は頬を膨らませ、恭平の首にしがみつく。
その瞳には、兄への憧れと信頼、そして愛らしい好奇心が混ざり合っていた。
恭平は苦笑しながらも、智恵美を下ろした。
「ほら、さっさと手ぇ洗いや。」
リビングの奥からは、母・幸代の声が飛んできた。
四十二歳。女手ひとつで三人の子どもを育ててきた肝っ玉母ちゃんで、日々の疲れは見え隠れするが、その声には威厳と温かさが同居している。
「ほんまアンタ、毎日どこ走り回ってんの。事故でも起こしたらどうすんのよ!」
恭平は言われるままに手を洗い、食卓に座る。
テーブルには湯気の立つ肉じゃが、味噌汁、焼き魚が並ぶ。
醤油と出汁の香りが、家の中に満ちていた。
「お、恭平帰ってきたんか!」
大学生の兄・真宙が声をかける。
二十歳で、体格が良く、スポーツも勉強も万能。家族の期待を一身に背負う存在だ。
「お前さぁ、あんまり母さんに心配かけんなよ」
「……別に」
「別にちゃうやろ。家に帰ってきてから、まともに会話したこと何回ある? 高校二年なんやし、将来のこととかちゃんと考えろよ」
真宙の言葉は正論だ。だが、恭平にとっては耳障りなだけで、バイクのエンジン音の方がずっと心を落ち着かせてくれる。
母・幸代が割って入る。
「まぁまぁ、真宙。アンタもあんまり言いすぎんといて。恭平は恭平で考えとるやろ」
「考えてるようには見えへんけどな」
真宙は肩をすくめる。
智恵美は慌てて場を和ませようと笑顔を振りまく。
「えへへ……でも、うちのお兄ちゃん、ほんまカッコええで? 学校でも女子にモテモテやねん」
「誰がやねん」
恭平は呆れたように言いながら、妹の頭を軽く小突いた。
リビングには笑い声が広がり、不器用ながらも家族の空気は確かに温かかった。
その頃、滝野家。
一花はダイニングテーブルに座り、背筋を伸ばして夕食をとっていた。
整った和食中心の献立は、味は確かだが、どこか窮屈で形式ばった空気を漂わせる。
母・友恵の視線は鋭く、食卓の空気を支配していた。
「一花、今日の小テストはどうやったん?」
「えっと……まぁまぁかな」
「“まぁまぁ”って何点なん?」
一花は箸を止める。
「……八十八点」
空気が一瞬で張り詰めた。
友恵の眉はきつく寄せられ、冷たい声が食卓に響く。
「八十八点で“まぁまぁ”? あんた、満点取る気ないん?」
友恵は九十点以下を点数と認めない方針だった。
一花は言葉を失い、箸を手にしたまま沈黙する。
父・雄大は新聞をめくるだけで何も言わない。
家族の会話は実質、母だけで成り立っていた。
一花は心の奥でため息をつく。
(……さっきの如月くん、かっこよかったな)
夕陽の中を走り去る恭平の背中の残像が、目の前の窮屈な食卓と強く対比される。
その自由さが、一花の胸をざわつかせた。
(……なんでやろ。今まで全然気にならんかったのに……)
自分でも理解できない感情に戸惑いながら、一花は箸を動かしていた。




