第二部-第二十八章 思い出を抱きしめて
玄関を開けた瞬間、柔らかな木の香りと、午後の光が差し込む温もりが一花を包んだ。
「いらっしゃい、一花さん。陽翔くんも、よう来てくれたな。」
智の声は低く、落ち着いていて、どこか安心感を与える響きがあった。
「お邪魔します……陽翔、靴ちゃんと揃えてな。」
「はーい!」
陽翔の声が弾み、奥から花音の声が響く。
「はるくん!」
次の瞬間、花音が駆け寄り、陽翔の手を引いた。
「いっしょにあそぼ!」
二人の笑い声が、木の床に反響してリビングに広がる。
窓から差し込む光が、床に柔らかな影を落としていた。
カーテンが風に揺れ、外から小鳥の声が微かに聞こえる。
その穏やかな音に、一花の胸が少しだけ緩んだ。
――こういう時間、久しぶりやな。
「どうぞ、座ってください。」
智がソファを指し、キッチンへ向かう。
「コーヒーでええですか?」
「はい、お願いします。」
一花はバッグを置き、深く息を吐いた。
その瞬間、遠くで子どもたちの笑い声が弾ける。
「これ、たかーくするんやで!」
陽翔の声に、花音が笑いながら応える。
「はるくん、こっちもあるよ!」
智がカップを二つ持って戻ってくる。
「熱いから気ぃつけてください。」
「ありがとうございます。」
カップを受け取った指先に、温もりがじんわり広がる。
コーヒーの香りが、静かな午後に溶けていく。
リビングの隅では、積み木がカラカラと音を立てて積み上がっていた。
「わぁ、ビルみたい!」
花音が目を輝かせると、陽翔が胸を張った。
「もっとたかくするんや!」
積み木が崩れそうになるたび、二人の笑い声が弾ける。
その音が、部屋の空気をやわらかく満たしていた。
「倒れんように、そーっとやで。」
智の声が優しく響く。
その言葉に、一花は思わず智を見た。
――この人、ほんまに子ども好きなんやな。
その自然な笑顔に、心が少し揺れる。
「パパ、みて!」
花音が積み木の塔を指さす。
「おお、すごいやん。陽翔くんも、うまいなぁ。」
智が褒めると、陽翔が照れくさそうに笑った。
「えへへ……」
その笑顔を見て、一花の胸がまた少し熱くなる。
――こういう時間、陽翔にとっても大事なんやろな。
でも、その隣にいるのが智でええんやろか。
その問いが、心の奥で静かに渦を巻く。
「お菓子、持ってきますね。」
智が立ち上がり、キッチンへ向かう。
その背中を見ながら、一花はカップを見つめた。
――なんで、この人といると、こんなに落ち着くんやろ。
智の声、仕草、間の取り方。
全部が、優しくて、余裕がある。
その余裕が、一花の心を少しずつ揺らしていく。
「はい、どうぞ。子どもたちにはジュースも。」
智がトレーを持って戻り、テーブルに並べる。
「ありがとうございます。」
一花は微笑みながら受け取った。
その笑顔を、智が静かに見つめていた。
その瞬間、記憶がふっと蘇った。
――パン工場の休憩室。
規格外のパンを二人で分け合ったあの日。
「これ、形いびつやけど、味は一緒やな。」
恭平が笑いながら言った。
「うち、こういうの好きやわ。」
二人でかじったパンの温もり。
その笑顔が、今も胸に残っている。
――清掃会社の現場。
埃まみれになって、顔に黒い筋がついた恭平。
「一花、顔すごいことなってるで!」
「恭平こそ、パンダみたいやん!」
二人で笑い合ったあの瞬間。
疲れてても、笑えた。
一花はカップを握りしめ、視線を落とした。
――恭平。
その名前が、胸の奥で重く響く。
でも、目の前には智の穏やかな笑顔がある。
現実が、一花をさらに揺らす。
子どもたちの笑い声が、リビングに響く。
「はるくん、これたべよ!」
「うん!」
その声に救われるように、一花は視線を窓に向けた。
外は、やわらかな午後の光。
風がカーテンを揺らし、遠くで小鳥がさえずる。
時計の針が静かに刻む音が、部屋の静けさに溶けていく。
「……こういう時間、久しぶりです。」
思わず智が笑顔で口にした。
「うちも、こういうの好きやから。」
その笑顔に、一花の胸がまた少しだけ熱くなる。
――うちは、どうしたらええんやろ。
前に進むって、ほんまに恭平を裏切ることなん?
何度も、何度も問いかける。
その答えは、まだ見えなかった。




