第二部-第二十七章 無垢な笑顔
保育園の門をくぐると、夕暮れの光が園庭を淡く染めていた。
子どもたちの笑い声が遠くで響き、風に乗って落ち葉が舞う。
一花は陽翔の小さな手を握りながら、ゆっくりと歩き出した。
「ママ、きょうな、ブロックでおうち作ったんやで!」
陽翔の声は弾んでいて、その笑顔に一花の胸が少しだけ温かくなる。
――こんな時間が、ずっと続けばいい。
そう思った瞬間、視界の端に見覚えのある背中が映った。
「……遥斗さん?」
振り返ったその人は、柔らかな笑みを浮かべていた。
夕陽に照らされた横顔が、記憶よりも少し大人びて見える。
「一花さん……久しぶりですね。」
その声に、一花の心臓が跳ねた。
――どうして、こんな時に。
智恵美の言葉が脳裏をよぎる。
『恭平兄ちゃんを忘れるつもりなん?』
胸の奥がざわめき、息が詰まりそうになる。
「……ほんま、久しぶりですね。」
かろうじて笑みを作ると、陽翔がぱっと顔を輝かせた。
「はると兄ちゃん!」
小さな声が弾ける。
遥斗はしゃがみ込み、陽翔と目線を合わせた。
「お、覚えてくれてたんやな。陽翔くん、元気そうやん。」
その自然体な笑顔に、一花の胸がまたざわつく。
――恭平も、こんなふうに陽翔と同じ目線で話してくれたんやろな。
その思いが、痛みとともに込み上げる。
「今日は、どこか行かれるんですか?」
遥斗の問いに、一花は少し戸惑いながら答えた。
「いえ、家に帰って、ご飯作るだけですけど……」
声がかすれる。
なぜだろう、こんな普通の会話が、やけに重く感じる。
「そうですか。……今度、陽翔くんも一緒に3人で遊びに行きませんか。公園とか、動物園とか。」
その言葉に、一花の胸が強く揺れた。
――遊びに行く?
それは、前に進むことになるんやろか。
恭平を裏切ることになるんやろか。
「……考えときます。」
精一杯、曖昧な笑みを浮かべる。
その瞬間、陽翔が無邪気に言った。
「ママ、いきたい!」
小さな声が、夕暮れに響く。
一花は陽翔の手を握り直し、遥斗を見つめた。
その笑顔は、何も責めず、ただ優しかった。
――どうして、こんなに自然なんやろ。
その問いが、胸の奥で渦を巻く。
帰り道、陽翔は楽しそうに遥斗の話をしていた。
「はると兄ちゃん、やさしいなぁ。いっしょにあそびたいなぁ。」
その声に、一花は答えられなかった。
智恵美の涙が、また脳裏に浮かぶ。
――「恭平兄ちゃんを忘れるなんて許せへん。」
その言葉が、夕暮れの風よりも冷たく、一花の心を締め付ける。
遥斗の笑顔が、まだ胸に残っている。
その笑顔に、ほんの少し心が揺れた自分が――怖かった。
家に着いた瞬間、一花は深く息を吐いた。
玄関のドアを閉める音が、やけに重く響く。
陽翔は靴を脱ぎながら、「ママ、はると兄ちゃんとあそびたいなぁ」と無邪気に笑った。
その声が胸に刺さる。
一花は陽翔の頭を撫でながら、笑顔を作った。
「……そうやな、また今度な。」
声が震えそうになるのを必死で抑える。
キッチンに立ち、冷蔵庫を開ける。
冷気が頬に触れた瞬間、遥斗の笑顔が脳裏に浮かんだ。
――あの人、なんであんなに自然なんやろ。
陽翔に向ける優しい目。
自分に向ける、責めない笑顔。
そのすべてが、心を揺らす。
でも、その揺れが怖い。
智恵美の声が、また耳の奥で響く。
「恭平兄ちゃんを忘れるつもりなん?」
その言葉が、刃みたいに胸を切り裂く。
忘れるつもりなんてない。
恭平の笑顔は、今も写真の中で輝いてる。
一花は冷蔵庫を閉め、ソファに腰を下ろした。
スマホがテーブルに置かれている。
画面を見たくない。
――智恵美に見られたあのメッセージ。
「花音が楽しみにしています。無理のない範囲でぜひ。」
智の言葉が、優しすぎて逆に苦しい。
遥斗と智。
二人の名前が、心の中で重なる。
どっちも悪い人やない。
どっちも、陽翔にとってはええ人や。
でも――恭平は?
恭平は、もうここにはおらん。
それでも、一花の心には、まだ恭平がいる。
強く、深く、消えへんまま。
「……うちは、どうしたらええん?」
声に出した瞬間、涙がこぼれた。
陽翔の笑顔を守りたい。
でも、そのために恭平を遠ざけることになるんやろか。
それって、裏切りなん?
恭平を愛してたなら、他の男なんて考えられへん――智恵美の言葉が、何度も胸を締め付ける。
一花は立ち上がり、棚の上の写真立てを手に取った。
そこには、夕陽に照らされた恭平の笑顔。
「……恭平。」
声が震える。
写真の中の彼は、何も言わない。
問いかけても、返事はない。
あるのは、静寂だけ。
時計の針が刻む音が、やけに大きく響く。
一花は写真を抱きしめ、目を閉じた。
遥斗の笑顔が浮かぶ。
智の落ち着いた声が重なる。
そして、恭平の笑顔が、そのすべてをかき消す。
――前に進むって、ほんまに恭平を裏切ることなん?
その答えは、闇の中に溶けていった。




