第二部-第二十六章 答えのない夜
陽翔を寝かしつけた後、リビングは深い静寂に包まれていた。
時計の針が刻む音だけが、淡い闇に響いている。
その音が、やけに大きく感じる夜だった。
一花はゆっくりと立ち上がり、棚の上に置かれた写真立てに目を向ける。
そこには――恭平の笑顔。
夕陽に照らされたあの日の笑顔が、変わらずそこにあった。
指先が震えながら、写真を手に取る。
冷たいガラス越しに触れた瞬間、胸の奥がきしむ。
「……恭平。」
声に出した途端、涙が込み上げた。
けれど、泣いてばかりじゃいけない――そう言い聞かせてきた。
でも、本当にそれでいいの?
ソファに腰を下ろし、写真を抱きしめるようにして目を閉じる。
その瞬間、記憶が波のように押し寄せた。
――『一花、また明日な。』
笑いながら手を振る恭平。
高校の帰り道、夕焼けに染まる彼の横顔。
その時の風の匂いまで、鮮やかに蘇る。
――『一花、一緒に逃げよか。』
あの夜、震える声で言った恭平。
必死に未来を掴もうとしていた二人。
暗い駅のホームで、手を握り合った感触がまだ残っている。
一花は目を開け、写真を見つめた。
「忘れへん……絶対に。」
声が震える。
でも、その誓いは、どこか脆い。
窓の外、夜風がカーテンを揺らす。
その音に紛れて、一花は心の奥で問い続けた。
――前に進むって、どういうことなんやろ。
恭平を忘れること?
他の誰かを好きになること?
それとも、ただ笑うこと?
陽翔の寝息が、遠くで聞こえる。
その音が、一花を現実に引き戻す。
「陽翔には……笑っていてほしい。」
小さくつぶやく。
でも、そのために自分は何を失うんやろ。
恭平との思い出を、心の奥にしまい込むこと?
それとも、罪悪感を抱えたまま生きること?
智恵美の涙が脳裏に浮かぶ。
――「恭平兄ちゃんを忘れるつもりなん?」
その言葉が、刃のように胸に残っている。
一花は写真を抱きしめ、唇を噛んだ。
「恭平……うちは、どうすればええの?」
声は夜に溶け、答えは返ってこない。
ただ、静寂だけが続いていた。
幻聴のように、恭平の声が耳に響く。
――『一花、泣くなや。俺は、ずっとそばにおるから。』
その声に、一花は目を閉じ、必死に涙をこらえた。
でも、次の瞬間、胸の奥で何かが崩れ落ちる音がした。
一花は写真を見つめたまま、ぽつりと呟いた。
「……ほんまに、会いたいよ……」
その言葉の余韻に導かれるように、ふと口からこぼれたメロディ。
西野カナの『会いたくて』――高校時代、恭平とよく聴いた曲だった。
何気ない日常の中で、ふたりで口ずさんだこともある。
今はその歌が、胸の奥を締めつける。
声は震え、涙が喉を塞いだ。
ただ、静かに写真を抱きしめた。
「ほんまに……おるん?」
問いかけても、返事はない。
あるのは、写真の中の笑顔だけ。
一花は立ち上がり、窓辺に歩み寄った。
夜空には、雲間から覗く月が淡く光っている。
その光が、恭平の笑顔に重なって見えた。
「前に進むって……恭平を裏切ることなん?」
声が震え、涙が頬を伝う。
その答えを探して、夜空を見上げる。
でも、星は何も語らない。
陽翔の寝顔を見に、そっと部屋を覗く。
小さな胸が、規則正しく上下している。
その姿に、一花の心が揺れる。
――守らなあかん。
その思いが、胸に突き刺さる。
でも、そのために恭平を遠ざけることになるんやろか。
「恭平……うちは、どうしたらええん?」
声はかすれ、涙が落ちる。
その音さえ、夜に吸い込まれていった。
この夜、一花は眠れなかった。
写真を抱きしめたまま、朝を迎えるまで――。




