第二部-第二十五章 兄妹の絆
夕暮れの光がカーテン越しに差し込み、リビングは淡い橙色に染まっていた。
築年数は古いが、温かみのある2LDKの社宅。
ナカムラベーカーリーが従業員向けに提供している住居で、一花は家賃0円で陽翔と二人、ここで暮らしている。
恭平が亡くなったあと、社長が「何も気にせんでええ。ここで陽翔くんと安心して暮らし」と言ってくれた。
その言葉に、どれだけ救われたか分からない。
一花は陽翔の笑い声を背に、包丁を握りながら夕食の準備をしていた――その時。
――ピンポーン。
玄関のチャイムが、静かな空気を切り裂いた。
胸の奥がざわめく。一花は手を止め、ゆっくりとドアへ向かう。
「……智恵美ちゃん?」
ドアを開けた瞬間、冷たい風が頬を撫でた。
そこに立っていたのは、金色に染めたショートヘアを揺らす智恵美。
目は赤く、何かを必死に押し殺している。
「ちょっと、話あるねん。」
その声は低く、震えていた。
一花の心臓が、嫌な予感とともに跳ねる。
智恵美は靴を脱ぎ捨てるようにしてリビングへ。
振り返ったその瞳は、鋭い刃のようだった。
「……最近、誰かと会ってるやろ?」
空気が一瞬で凍りつく。
一花の指先が震え、包丁を置く音がやけに大きく響いた。
「え……?」
「居酒屋の店員さんとか、保育園の女の子のお父さんとか。」
どうして――知ってるの?
「智恵美ちゃん、それは……」
「答えてや!」
智恵美の声が弾けた。怒りと悲しみが入り混じったその瞳に、一花は言葉を失う。
「一花さん、恭平兄ちゃんを忘れるつもりなん?」
その一言が、心臓に突き刺さる。
「忘れるなんて……そんなこと……」
「じゃあ、なんで?なんで他の男とあんな笑顔で喋ってるん?」
智恵美の頬を涙が伝う。
「恭平兄ちゃんが死んで、まだそんなに経ってへんのに……どうしてそんなことできるん?」
「うちは……恭平を忘れたいわけやない。でも……」
「でも何?」
「陽翔のために、前に進まなあかんって……」
「前に進むって、恭平兄ちゃん裏切ることなん?」
その瞬間、智恵美の視線がスマホに落ちた。
「……これ、見せて。」
「智恵美ちゃん、やめて!」
一花が止める間もなく、画面が開かれる。
そこには――智からのメッセージ。
『花音が楽しみにしています。無理のない範囲でぜひ。』
智恵美の顔が怒りで染まった。
智恵美はスマホを握りしめたまま、リビングの中央に立ち尽くす。
「……ほんまに、他の男と繋がってるんやな。恭平兄ちゃんが亡くなって、たった三年やで? うち、毎日仏壇に手ぇ合わせてる。兄ちゃんのこと、忘れたことなんか一度もない。なのに……」
一花は言葉を失っていた。
智恵美の怒りは、悲しみの裏返しだとわかっていても、胸が痛かった。
「うちは、兄ちゃんのこと、ずっと見てきた。あんたのことも、ずっと見てきた。高校のときから、どんなに好き合ってたか知ってる。だからこそ、許されへんねん。なんでそんな簡単に、他の男と笑えるん?」
「簡単やない……うちは、ずっと泣いてた。毎晩、陽翔が寝たあとに、声殺して泣いてた。恭平の写真見て、話しかけて……」
「じゃあ、なんで! なんでそのスマホに、他の男からのメッセージがあるん? “花音が楽しみにしてます”って、何それ? 家族ぐるみで仲良くしてるってことやん!」
智恵美の声が震え、怒りと悲しみが混ざり合っていた。
「うちは、兄ちゃんの代わりになんてなれへん。でも、兄ちゃんのことを守りたい。兄ちゃんの“想い”を、あんたに裏切ってほしくないんよ!」
一花は、智恵美の言葉に耐えきれず、目を伏せた。
「なんで他の男と関わるん? 陽翔のためって言うけど、それって結局、自分のためちゃうん?」
「違う……違うんよ……」
「ほんまにそう言える? 兄ちゃんが生きてたら、そんなことせぇへんかったやろ? 兄ちゃんが亡くなったからって、心まで離れていくんやったら、うちは……うちは、兄ちゃんのこと、誰が守るん?」
その言葉に、一花の胸が締め付けられた。
智恵美の涙は止まらず、声も震えていた。
「兄ちゃんのこと、誰かが覚えてなあかん。うちは、忘れへん。絶対に。だから、あんたが他の男と笑ってるの、見たくないんよ……!」
その叫びに、一花は何も言えなかった。
――そのとき。
「ママ……?」
陽翔の小さな声が、部屋の隅から響いた。
二人は動きを止める。
陽翔は、寝室のドアの隙間から顔を覗かせていた。
「ママ、泣いてるの……?」
一花は陽翔を抱きしめ、智恵美を見つめた。
「うちは……恭平を忘れへん。でも、陽翔のために、前に進みたい。泣いてばっかりやったら、陽翔まで悲しくなる。うちは、笑っていたい。陽翔のために」
智恵美は唇を噛み、涙を拭った。
「……うちは絶対に許せへんから」
ドアが乱暴に閉まる音が、静寂を引き裂いた。
残されたリビングで、一花は陽翔の髪を撫でながら、心の奥で恭平に語りかける。
――うちは、どうすればええの?
答えは、まだ見えなかった。
でも、陽翔の温もりだけが、今の一花を支えていた。




