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第二部-第二十四章 揺れる心

保育園の門をくぐった一花は、園庭で笑い声を響かせる陽翔を見つけてほっと息をついた。


砂場で夢中になっている陽翔の隣には、花音ちゃん――陽翔の一番の仲良しがいる。


二人は小さな手で山を作りながら、何かを相談しているようだった。

――その時、背後から低い声がした。


「滝野さん、ですよね?」


振り返った一花の視線の先に、スーツ姿の男性が立っていた。


ネイビーのジャケットにきちんと締められたネクタイ。肩にはビジネスバッグ。仕事帰りなのだろう、整った顔立ちに、疲れを隠した笑みが浮かんでいる。


「花音の父です。いつも陽翔くんと仲良くしてくれて、本当にありがとうございます。」


深々と頭を下げるその仕草に、一花は一瞬、言葉を失った。


礼儀正しく、誠実さがにじみ出ている――その姿に、なぜか胸がざわめく。


「こちらこそ、花音ちゃんにはいつも遊んでもらって助かってます。」


そう答えながら、一花はふと園庭に目を戻した。


花音ちゃんが陽翔の耳元で何かをささやいている。


頬をほんのり赤く染め、目を輝かせて。


――あの子、何を話しているんだろう。


男性が少し息をつき、言葉を続けた。


「実は……花音が、陽翔くんに家に遊びに来てほしいって、ずっと言っていて。僕も、もしご迷惑でなければ……」


その瞬間、一花の胸に過去の記憶がよみがえる。


――恭平と過ごした日々。


けれど今、目の前にいるのは、仕事に人生を捧げてきた人――まるで別の世界の人みたい。


その誠実な眼差しが、なぜか心を揺らす。


「そうなんですね……陽翔も、きっと喜びます。」


声を出した瞬間、自分の心が少し震えていることに気づいた。


彼の視線が一花と重なり、わずかな沈黙が流れる。


その沈黙の中で、一花は思う――


この人と話すことが、なぜこんなにも怖いのだろう。


園庭では、花音ちゃんが陽翔の手をぎゅっと握っていた。


――「絶対来てね」


その小さな唇が動くのを、一花は見逃さなかった。


花音の胸の奥には、ただ純粋な願いがある。


陽翔ともっと一緒にいたい。笑っていたい。それだけ。


その無垢な気持ちが、一花の心に静かに響いた。


男性は少し照れたように笑い、言葉を続けた。


「……僕、仕事ばかりで、花音には寂しい思いをさせてしまっていて。だから、こういうお願いをされると、できる限り叶えてやりたいんです。」


その声には、誠実さと、父親としての不器用な愛情が滲んでいた。


一花は胸の奥で、何かが静かに揺れるのを感じる。


「……そうなんですね。陽翔も、きっと喜びます。」


そう答えると、男性はほっとしたように微笑んだ。


「ありがとうございます。あ、僕――高橋智たかはしさとしといいます。」


名刺を差し出すその手は、仕事で鍛えられたようにしっかりしていた。


名刺の端に書かれた肩書きは、外資系企業の営業部長。


――やっぱり、仕事一筋の人なんだ。


一花は名刺を受け取りながら、少し迷った。


けれど、花音ちゃんの笑顔が頭をよぎる。


「絶対来てね」


その唇の動きが脳裏に焼き付いている。


「じゃあ……連絡先、交換しておきますか?日程とか決めるために。」


自分の声が震えていないか、一花は不安だった。


智は一瞬驚いたように目を見開き、すぐに柔らかな笑みを浮かべた。


「はい、ぜひ。ありがとうございます。」


スマホを取り出し、連絡先を交換する二人。


その瞬間、一花の胸に小さなざわめきが広がった。


――これは、ただの連絡先交換。


そう言い聞かせながらも、心の奥で別の声が囁いていた。


この人と話すことが、なぜこんなにも怖いのだろう。


園庭では、花音ちゃんが陽翔の手をぎゅっと握り、笑顔で跳ねていた。


その笑顔が、未来への扉を静かに開けているように見えた。


そして――


園の外。塀の影から、その光景を見つめるひとりの女性がいた。


智恵美だった。


買い物袋を片手に、静かに立ち尽くしている。


彼女の視線は、一花とスーツ姿の男性がスマホを並べている手元に釘づけになっていた。


一花の横顔には、穏やかな笑み。


それは、兄・恭平が亡くなってから、智恵美が一度も見たことのない種類の笑顔だった。


――その笑顔を、兄はもう見られない。


胸の奥で、何かがちくりと痛む。


智恵美は唇をかすかに噛みしめた。


心の中で湧き上がる感情を言葉にできない。


怒りなのか、悲しみなのか、自分でもわからなかった。


ただ、ひとつだけ確かだった。


一花が少しずつ“あの頃”を手放していくのが、ど

うしようもなく怖かった。


風が吹き抜ける。


一花がふと門の方を振り返るが、そこにはもう誰の姿もなかった。


智恵美は、買い物袋を握りしめながら、小さく呟いた。


「……恭平兄ちゃん、あの人、もう忘れようとしてるよ。」


声は風に溶け、夕暮れの街に消えていった。


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