第二部-二十三章 それぞれの想い
智恵美は玄関を開け、買い物袋を持ったまま靴を脱ぎ、苛立ちをにじませて言った。
「ただいま」
「おかえり。鶏肉、ちゃんと買うてきた?」
台所から母の声が返ってくる。ガスコンロの火の音と、味噌汁の香りが家の中に広がっていた。
「買うてきたよ。豆腐も忘れてへんし」
袋を渡しながら、智恵美は少し間を置いてから言った。
「なあ、今日な……一花さん、男の人と一緒におったで。居酒屋の前で。陽翔も一緒で、めっちゃ楽しそうにしてた」
母は手を止めて、味噌汁の鍋を見つめたまま、静かに言った。
「……そうなんや」
「そうなんやって、何? 恭平兄ちゃんのこと、もう忘れたん?」
その瞬間、リビングから真宙が顔を出した。
「ええやんか、別に。一花さんが笑えるようになったんやったら、それでええやん」
「ええって……ほんまにそう思ってんの?」
「思ってるよ。もう三年やぞ、一花さんがちょっとでも前向いて歩けるんやったら、それが一番ちゃうんか?」
智恵美は、言葉を失った。
母も、静かに鍋の火を止めながら言った。
「恭平のこと、忘れてへんよ。でもな、一花ちゃんが笑えるようになったんやったら、それはええことやと思う。陽翔も、きっと嬉しいやろし」
「……信じられへん」
智恵美は、声を震わせながら言った。
「みんな、恭平兄ちゃんのこと、もう心の中から消してるんやろ。あんなに一花さんのこと、愛してたのに!」
母は、少しだけ目を伏せて言った。
「恭平がな、ほんまに望んでたんは、一花ちゃんと陽翔が幸せになることやと思うよ。あの子、優しかったから」
その言葉に、智恵美は耐えきれなくなった。
「……裏切りやん! 家族やのに! なんでそんな冷たいこと言えるん!?」
声が震え、涙が溢れ出す。
「一花さんがあんな顔して笑ってるの見て、うち……うち、ほんまに腹立って、悲しくて……!」
母が「智恵美……」と声をかけようとしたが、もう遅かった。
「恭平兄ちゃんのこと、誰も覚えてへん! あんなに優しくて、あんなに一花さんのこと大事にしてたのに! なんで、なんであんな簡単に忘れられるん!?」
智恵美は、泣き叫びながらリビングのドアを乱暴に開け、玄関へと駆け出した。
「もうええわ! うち、こんな家おりたない!」
母が追いかけようとするも、智恵美は靴もろくに履かず、裸足のまま外へ飛び出した。
夜の街は、梅雨の湿気を含んだ風が吹いていた。
公園のベンチに腰を下ろし、膝を抱えて泣き続ける。
――恭平兄ちゃん。
もう誰の中にもおらんの?
恭平兄ちゃんに似てるだけで、心許すなんて。
そんなの、許されへん。
風が、木々の間を抜けていく。
六月の夜風は、少し冷たかった。
でも、智恵美の胸の中は、怒りと孤独で燃えていた。
「なあ、一花!」
パン屋のランチ休憩。
店の近くのカフェで、美咲がテーブル越しに身を乗り出してきた。
「この前パン屋で会うたやん?恭平くんにそっくりな人!その後、どうなってんの?めっちゃ気になっててん!」
一花は、思わず笑ってしまった。
「そんなに気になるん?」
「気になるに決まってるやん!そんなん、運命ちゃうん? 恭平くんに似てるとか、もうドラマの脚本やで」
「……ほんまに、似てるやんな。顔も、声も。でも、違う人やねん。名前は木崎遥斗さん。居酒屋でバイトしてはる人」
「遥斗さん……え、名前まで知ってるん。“はると”って、陽翔と同じやん!」
一花は、カップのコーヒーを見つめながら、静かに頷いた。
「字は違うみたいやけど、陽翔も、“はると”って呼ばれて、すぐ反応しててん。なんか、不思議やったわ」
「それってさ、もうほんまに運命やん。恭平くんが風になって、一花に新しい出会いを運んできたんちゃう?」
一花は、少しだけ目を伏せた。
「でもな……まだ怖いねん。恭平を忘れてしまうみたいで」
「忘れてもええねんて。一花が恭平くんのこと大事に思ってるんは、みんな知ってる。でもな、陽翔くんが笑ってるなら、それが一番ちゃう?」
「……陽翔、遥斗さんにすごく懐いてて。保育園で絵に描いて渡してたんよ」
「それ、もう好きやん。子どもって、正直やからな」
一花は、ふっと笑った。
「美咲って、ほんまに前向きやな」
「そらそうやん。一花には、ちゃんと幸せになってほしいもん。恭平くんも、きっとそう思ってるで」
その言葉に、一花の胸が静かに揺れた。
――幸せ。
それが、今の自分に許されるものなのか、まだ答えは出せない。
でも、遥斗の名前が、少しずつ心の中に根を張り始めてるのを、一花は感じていた。
風が、カフェの窓を揺らした。
六月の風は、少し湿ってて、でもどこか優しかった。
まるで、何かを運んできたように。




