第二部-第二十二章 偶然の目撃
六月の夕暮れ。湿った風が街を包み、商店街のアスファルトが昼間の熱をゆっくりと手放していた。
智恵美は、大学の講義を終えて、母に頼まれた夕飯の材料を買いに来ていた。
スーパーの袋には、鶏肉とじゃがいも、そして母の好きな豆腐が入っている。
少し遠回りして帰ろうと、商店街の裏通りを歩いていたときだった。
「あっ、はるとー!」
聞き覚えのある声に、智恵美は足を止めた。
振り返ると、居酒屋の前で陽翔が駆け寄っていく姿が見えた。
その先には、一花。そして、店の前で掃除をしていた青年がいた。
智恵美は、思わず歩み寄ろうとした。
――陽翔? なんでこんなところに?
可愛い甥っ子に声をかけようとした瞬間、青年が顔を上げた。
その横顔を見た瞬間、智恵美の足が止まった。
――え……?
目の前の青年は、恭平に、あまりにも似ていた。
髪型も、顔の輪郭も、目元の雰囲気も。
違うとわかっていても、心が一瞬、過去に引き戻された。
陽翔が絵を取り出し、青年に見せている。
「見て! 今日描いたの!」
青年が笑顔で受け取り、陽翔の頭を撫でる。
「これ、風車? すごく上手だね」
「うん! お兄ちゃんのことも描いた!」
「えっ、僕も?」
「うん! 風車の隣がお兄ちゃん!」
そのやりとりに、一花が微笑む。
その笑顔が、智恵美にはどうしても受け入れられなかった。
――そんな顔、最近見たことなかった。
恭平が亡くなってからの一花は、どこか影を落としていた。
でも今、目の前で笑っている一花は、まるで別人のようだった。
青年が一花に話しかける。
「パン屋さん、朝早いんですよね?」
「9時半からなんですけど、仕込みがある日はもう少し早くて」
「そうなんですね。お母さんって、ほんとに大変だ」
「でも、パン作りは好きなんです。陽翔が保育園に行ってる間に集中できるので」
「それ、いいですね。僕も、朝のパンの匂いって好きです」
智恵美は、袋を握る手に力が入った。
――何なの、この空気。
まるで、恭平がそこにいるみたい。
でも、違う。
違うのに、一花はその青年に、笑いかけている。
そのことが、どうしても許せなかった。
陽翔が、青年に向かって言った。
「お兄ちゃん、パン屋さん来てね! ぼくの好きなメロンパン、あるよ!」
「メロンパンかあ。甘くて美味しいよね」
青年が笑い、一花がまた微笑む。
その表情に、智恵美の胸がざわついた。
――恭平兄ちゃんを忘れていくの?
あんなに泣いていたのに。
あんなに、苦しんでいたのに。
今、目の前で笑っている一花は、まるで新しい恋を始めようとしているように見えた。
青年が陽翔に手を振る。
「うん。またね、“はると”くん」
その声が、風に乗って届いたとき、智恵美はそっと背を向けた。
歩き出しながら、胸の奥がじわりと熱くなるのを感じた。
――“はると”。
陽翔と同じ響き。
それが偶然だとしても、一花がその名前に惹かれているように見えるのが、どうしても腹立たしかった。
風が、少しだけ強く吹いた。
智恵美は、袋を握りしめながら、足早にその場を離れた。
まるで、何かを振り払うように。




