第二部-第二十一章 風車の記憶
その日は、保育園の帰り道だった。
夕方の空は、少しずつ藍色に染まり始めていて、街の灯りがぽつぽつと灯り始めていた。
一花は、仕事を終えてパン屋を出たばかり。
陽翔を迎えに行き、手をつないで歩いていた。
「ママ、あそこ通ってもいい?」
陽翔が指さしたのは、先日風車が飛んでいった居酒屋の通りだった。
「また“はると”兄ちゃんに会えるかも!」
その言葉に、一花は少しだけ胸がざわめいた。
あの日の再会は偶然だった。
でも、陽翔の中ではもう“お兄ちゃん”として記憶に刻まれているらしい。
「通るだけだよ?」
「うん!」
居酒屋の前に差しかかると、店の前で掃除をしている青年の姿が見えた。
白いシャツに黒いエプロン。あの日と同じ姿。
「はると兄ちゃんー!」
陽翔が声を上げると、青年――遥斗が顔を上げて、驚いたように目を見開いた。
「……あ、また会いましたね」
「お兄ちゃん、いたー!」
陽翔が駆け寄ると、遥斗は笑顔でしゃがみ込み、陽翔の頭を軽く撫でた。
「今日も元気だね。保育園、楽しかった?」
「うん! お絵かきした!」
一花は少し遅れて歩み寄り、遥斗に軽く会釈した。
「こんにちは。……また偶然ですね」
「ほんとに。夕方は店の準備で外に出ることが多いんです。掃除とか、買い出しとか」
「そうなんですね。お忙しいのに、すみません」
「いえいえ。陽翔くん、元気そうで何よりです」
陽翔は、リュックのポケットから小さな紙を取り出した。
「見て! 今日描いたの!」
遥斗が受け取ると、そこには風車と人らしき物と空を描いた絵があった。
「これ、風車? すごく上手だね」
「うん! お兄ちゃんのことも描いた!」
「えっ、僕も?」
「うん! 風車の隣がお兄ちゃん!」
遥斗は笑いながら、絵を見つめた。
「ありがとう。嬉しいな」
その様子を見て、一花の胸がまた静かに揺れた。
――似ている。
恭平とは違う。
でも、陽翔と自然に向き合ってくれるその姿が、どこか懐かしくて、温かかった。
「パン屋さん、朝早いんですよね?」
遥斗がふと、一花に問いかけた。
「9時半からなんですけど、仕込みがある日はもう少し早くて」
「そうなんですね。お母さんって、ほんとに大変だ」
「でも、パン作りは好きなんです。陽翔が保育園に行ってる間に集中できるので」
「それ、いいですね。僕も、朝のパンの匂いって好きです」
一花は、少しだけ笑った。
「よかったら、今度パン屋にも来てください。土日なら陽翔もいます」
「ほんとですか? それは楽しみだな」
陽翔は、嬉しそうに頷いた。
「お兄ちゃん、パン屋さん来てね! ぼくの好きなメロンパン、あるよ!」
「メロンパンかあ。甘くて美味しいよね」
そのやりとりの中で、一花はふと、遥斗の名前を思い返した。
――木崎遥斗。
自転車のチェーンが外れた日に聞いたその名前が、心の中で静かに響いていた。
「遥斗さんは、ずっとこの居酒屋で?」
「いえ、最近始めたばかりです。前は別の仕事してたんですけど、ちょっと事情があって」
「そうなんですね……」
遥斗は、少しだけ遠くを見るような目をした。
「でも、今はここで頑張ってます。料理も覚えてる最中で、まだまだですけど」
「きっと、すぐ慣れますよ」
「そう言ってもらえると、頑張れます」
その言葉に、一花は少しだけ胸が温かくなった。
陽翔が絵を畳みながら言った。
「お兄ちゃん、また遊ぼうね!」
「うん。またね、“はると”くん」
その声が、風に乗って一花の胸に届いたとき、彼女はそっと空を見上げた。
――恭平。
あなたが風になって、そっと背中を押してくれたのかな。
風がひとすじ、強く吹き抜ける。
まるで、新しい物語の幕が開く合図みたいに。




