第二部-第二十章 遥斗と陽翔
朝から湿った空気が街を包んでいたが、午後には雲が切れ、夕方には柔らかな光が街路を照らしていた。
アスファルトには昼間の熱が残り、風は少し蒸していたが、どこか心地よい。
保育園の門を出た陽翔は、手に持った紙の風車を高く掲げていた。
「くるくる、まわるかな?」
風を探すように、陽翔は歩道の端をぴょんぴょんと跳ねながら進んでいく。
風が吹くたびに、風車はくるくると回り、そのたびに陽翔は歓声を上げた。
一花は、そんな陽翔の後ろ姿を見守りながら歩いていた。
夕方の空は淡いグレーで、街の灯りがぽつぽつと灯り始めていた。
ふと、陽翔が立ち止まった。
「あっ……!」
紙の風車が風に乗って、ふわりと飛び、居酒屋の前に落ちた。
その店の前で、看板を拭いていた青年が、風車を拾い上げた。
一花は、その姿を見て、息を呑んだ。
――遥斗さん。
白いシャツに黒いエプロン。
風車を見つめる目。
その横顔が、あまりにも懐かしくて、胸が静かに震えた。
陽翔は、迷いなく駆け寄っていった。
「それ、ぼくの!」
青年はしゃがんで、陽翔に風車を手渡した。
「これ、君のなんやね。風に乗って、よく飛んだね。」
「うん! くるくるして、すごかった!」
一花は、少し遅れて歩み寄った。
遥斗が顔を上げて、驚いたように目を見開いた。
「……一花さん?」
「こんにちは。……偶然ですね。」
「ほんとに。こんなところで……」
遥斗は、陽翔に目を向けた。
「君は……?」
「はると! たきのはると!」
その瞬間、一花の心が止まった。
遥斗の表情も、わずかに動きを止めた。
「……はると、くん?」
「うん!」
遥斗は、陽翔の名前を繰り返すように、ゆっくりと口にした。
一花は、胸の奥がざわめいていた。
“遥斗”と“陽翔”――字は違う。でも、読みは同じ「はると」。
その偶然に、心が静かに揺れた。
遥斗は、陽翔の風車を手渡したあとも、しばらくその名前の響きを噛みしめるようにしていた。
「……“たきの はると”くん、か。」
陽翔は、風車を見つめながら無邪気に笑っている。
「ママが“はると”って呼ぶと、ぼく、すぐわかるよ!」
その言葉に、遥斗の目がふと揺れた。
「……ママ?」
一花は、少しだけ視線を逸らした。
「はい。……うちの息子です。」
遥斗は、ほんの一瞬、言葉を失ったように見えた。
驚きと、何かを飲み込むような表情。
「そうだったんですね……てっきり甥っ子さんかと」
その声は、少しだけ静かだった。
でも、すぐに笑顔を取り戻して、陽翔に向き直った。
「君のママ、すごいなぁ。風車、よう飛ぶように作ったんや。」
陽翔は胸を張って言った。
「ぼくが作ったんやで! でも、先生がちょっと手伝ってくれた!」
遥斗は笑いながら、風車を見つめた。
「僕も、“はると”って呼ばれたら、なんか反応してまうかもな。」
陽翔は、興味津々で遥斗を見上げた。
「お兄ちゃんも“はると”なん?」
「そう。木崎遥斗っていうねん。」
「へぇー! おんなじやね!」
陽翔の目が輝いていた。
その純粋な反応に、一花の胸がまた静かに揺れた。
――似ている。
顔も、声も。
でも、違う。
違うのに、心が勝手に重ねてしまう。
「このお店、遥斗さんの……?」
一花が問いかけると、遥斗は看板を拭いていた手を止めて、答えた。
「いえいえ。僕はバイトです。まだ新人ですけど。」
「そうなんですね……」
一花は、陽翔の手をそっと握った。
風車は、また少し風に揺れていた。
「風、強くなってきたね。」
遥斗が空を見上げる。
夕暮れの空は、少しずつ藍色に染まり始めていた。
「また、パン屋さんにも行きますね。」
その言葉に、一花は小さくうなずいた。
「……お待ちしてます。」
陽翔は、風車を高く掲げて言った。
「お兄ちゃん、またくるね!」
遥斗は笑って、手を振った。
「うん。またなぁ、“はると”くん。」
その声が、風に乗って一花の胸に届いたとき、
彼女はそっと空を見上げた。
――恭平。
あなたが風になって、導いてくれたのかな。
この偶然が、ただの偶然じゃないような気がするの。
風車が、くるくると回っていた。
まるで、何かが始まる予感のように。




