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第二部-第十九章 風が運ぶ音(名前)

その日は、小雨が降っていた。


空は薄灰色で、光と影の境目が曖昧だった。


しとしとと降る雨が、傘のふちで小さく跳ね、一花の指先を冷やす。


陽翔を保育園に送り届けた帰り道。


朝の喧騒が落ち着き、通りは少し静かで、濡れたアスファルトが鈍く光っていた。


遠くでバスが水を跳ね、低いエンジン音が街の湿った空気に溶けていく。


いつも通る道なのに、雨のせいか風景は少し違って見えた。


傘に落ちる雨音のリズムに、胸の奥の寂しさがふいに混ざる。


こうして陽翔を送り届け、ひとりで帰る時間は、いつも少し心に穴があく。


保育園の門をくぐる陽翔の小さな背中。


「いってきまーす」と振り向いて笑う顔。


その瞬間、誇らしさと、置いていかれるような切なさがいつも同時に襲う。


恭平がいたら、「今日は何して遊ぶんかな」なんて笑いながら手を繋いで歩いてたんやろか。


そんな想像を、雨が優しく打ち消した。


角を曲がったとき――


ふと、しゃがみこんだ人影が目に入った。


自転車が横倒しになり、チェーンが外れている。


白いシャツに雨が染み込み、肩の布地が肌に密着して輪郭を浮かび上がらせていた。


その姿に、一花の足がふと止まった。


理由はわからない。


ただ、視線が離れなかった。


「……あれ?」


思わず声が漏れた瞬間、青年が顔を上げた。


濡れた前髪が額に落ち、黒いまつ毛に水滴が留まって光っている。


目が合った。


一瞬、世界が止まったように感じた。


「……パン屋の」


驚いたように、それでもどこか嬉しそうに青年が笑った。


その笑顔。


その表情。


胸の奥を、風がすり抜けた。


あの日の、青空と光と、恭平の笑顔が同時に蘇る。


――ほんまに似てる。


恭平が、雨の日に傘もささずバイクいじってて、


「濡れてるやん、風邪引くで」って言ったら、


「お前が心配してくれるから大丈夫や」なんて茶化して笑った。


その時の目と、今の目が、重なって見えた。


「この前の……クロワッサンの」


「そう。結局、まだ食べれてませんけど」


二人は小さく笑った。


雨音が、距離を埋めるようにやさしく響いていた。


一花は傘を閉じ、しゃがみ込む。


「待ってください。うち、チェーン直すの得意です」


「え、いや……濡れますやん」


「大丈夫。……前、よくやってたから」


“前”。

その一言が胸の奥で重く響く。


手に触れたチェーンの感触が、記憶を呼び起こした。


オイルの匂い。


手についた汚れを笑いながらぬぐい合った日。


「ここ、こうやって……」


恭平の低くてやさしい声。


チェーンの外し方も入れ方も恭平が教えてくれた。


気づけば指が震えていた。


けれど、止められなかった。


今、目の前の青年は、恭平じゃない。


わかってる。


でも、指先に絡む鉄の冷たさが、過去と現在を繋ぐみたいで。


「……はい、できました」


立ち上がると、青年は目を丸くしていた。


驚きと、感心と、少しの戸惑い。


「すごい……ほんまに、助かりました」


声がまっすぐで、嘘がなかった。


「逆に僕が情けないですわ。チェーンぐらい直せんと」


「そんなことないですよ。誰でも、できひんことあるし」


自分の言葉に、自分が慰められる。


恭平がいた頃、できないことがあっても「任せとけ」って笑ってくれた。


あの安心感は、もう戻ってこないと思っていた。


少しの沈黙。


青年は、くちびるをきゅっと結び、決意したように言った。


「……あの、名前、聞いてもええですか」


胸が跳ねた。


「……滝野、一花です」


「滝野さん」


繰り返す声が、丁寧でやさしかった。


木崎遥斗きざきはるとです。……またパン、買いに行きます。今度はちゃんと食べます」


その笑顔に、空気が少し暖かくなる。


興味と敬意と、ほんの少しの緊張が混ざった視線。


一花をひとりの人として見てくれている眼差し。


陽翔の名前と同じ響き。


――遥斗。


偶然なのに、運命みたいで怖い。


でもどこか、やさしい。


「……お待ちしてます」


自分でも驚くほど自然に、笑みがこぼれた。


久しぶりに「誰かと未来の約束」をしたような気がした。たとえ小さなものでも。


雨は、いつの間にか止んでいた。


雲の隙間から柔らかな光が差し込む。


風が、頬を撫でる。


――恭平。


もしここにいるなら、今のうちを見てる?


この一瞬の揺らぎを、笑ってくれる?


怒る?


それとも、背中を押してくれてる?


風がまた吹いた。


やさしく、包むように。


“ええねんで”


そんな声が、確かに聞こえた気がした。


雨のにおいがまだ残る空気の中、


一花は歩き出した。


足もとに小さな水たまり。


そこに映った空は、さっきより少しだけ明るい。


胸の奥に、まだ痛みはある。


けれど、さっきまでより深く息が吸える気がした。


ふと、風が頬をなでる。


優しくて、どこか懐かしい。


その風に押されるように、


一花の口から、無意識にメロディーがこぼれた。


――あいみょんの「ハルノヒ」。


陽翔の名前を呼ぶたび、未来を信じてきた曲。


声というより、ひそやかな鼻歌。


歩幅に合わせて、少しずつ強く、澄んでいく。


誰かのために、


そして自分のために。


新しい季節へ向かっていくように、


一花はそっと歌い続けた。


その瞳は、雨上がりの空みたいに柔らかかった。

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