第二部-第十八章 出会い-風の似顔
あれから三年の月日が流れた。
一花は季節の移ろいを静かに受け止めながら生きてきた。
高校を卒業した一花は、逃避行の最中に働いていたパン工場で世話になった中村の薦めで、工場直営の販売店で店員として働いていた。
毎朝、焼きたてのパンの香りに包まれながら、トレイを手にして店頭に立つ日々。
陽翔は保育園に通い始め、笑顔を絶やさない元気な子に成長していた。
その日も、午後の陽射しがパン屋のガラスにやわらかく映り込んでいた。
店内にはバターと小麦の香りが漂い、焼きたての食パンが並ぶ棚の前で、一花はトングを動かしていた。
チリン――。
ドアベルの音が鳴った瞬間、振り向いた一花の中で、時間が止まった。
白いシャツの青年が立っていた。
額にうっすら汗を浮かべ、少し眩しそうに目を細めて笑うその表情が――あまりにも、恭平に似ていた。
髪の色も、背格好も、立ち方も。
何より、笑ったときの目尻の下がり方が、あの人とまったく同じだった。
「すみません、このパン、もう売り切れですか?」
声まで似ていた。
低くて、やわらかくて、どこか人懐っこい響き。
一花の心臓が、痛いほど跳ねた。
「あ……はい。クロワッサン、もう終わっちゃいました。」
自分でも驚くほど、声がかすれていた。
青年は一瞬きょとんとして、それから困ったように笑った。
「そっか……人気なんですね。じゃあ、また来ます。」
そう言って、ドアを押しながら、ふと振り返った。
「風、気持ちええですね。」
何気ない言葉。
でもその瞬間、店の外から吹き込んだ風が、パンの香りと一緒に一花の頬を撫でた。
その感触が、あの春の日と同じだった。
恭平が笑っていた、あの風と。
一花は、小さく微笑んでうなずいた。
「……ええ、本当に。」
青年は軽く会釈して出ていった。
ドアのベルが、もう一度鳴る。
今度は、美咲だった。
すれ違うように青年が店を出ていく。
ほんの一瞬、目が合った。
美咲はその場に立ち尽くした。
言葉も出ない。息も止まる。
目の前を通り過ぎた青年の顔が、あまりにも恭平に似ていたから。
「美咲……?」
一花の声に、はっと我に返る。
美咲は地元の大学に通っていた。
一花とは衝突もあったが、お互いに和解して元の親友に戻っていた。
「えっ……今の人……見た? 見たやんな!? ねえ一花、あれ、あれ……恭平くんにそっくりやったよね!? 顔も、雰囲気も、歩き方まで! あんな似てる人、いる!? ねえ、どういうこと!?」
美咲はまくしたてるように言葉を重ねた。
興奮と混乱が入り混じった声に、一花は静かにうなずいた。
「うん……うちも、びっくりした。」
一花はトングをそっと置き、カウンターの端に手を添えた。
「でも……恭平ちゃうよ。違う人。」
「わかってるけど……でも、あんなに似てるなんて……」
一花は、美咲の肩にそっと手を置いた。
「でも、ちゃうよ。恭平やない。」
その言葉を口にした瞬間、一花の胸の奥に、懐かしい思いがよみがえった。
恭平と過ごした日々。
春の風に吹かれながら笑い合ったあの瞬間。
そして、最後に見た彼の笑顔。
それは、痛みではなく、温もりとして蘇っていた。




