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第十六章 風のむこうへ

救急車のサイレンが病院の夜を切り裂いていた。


担架に乗せられた恭平の体は、すでに意識を失っていた。


血に染まった制服、割れたヘルメット、そして右手に握られた安産のお守り――それだけが、彼の最後の意志を語っていた。


「外傷性ショック! 脳挫傷の疑いあり! すぐにCT!」


救命センターの医師たちが叫び、看護師が走る。恭平の体は処置室へと運ばれ、モニターが脈を追いかけるように点滅していた。


その知らせは、すぐに家族のもとへ届いた。


病院のロビーに駆け込んできたのは、母・幸代だった。髪は乱れ、顔は蒼白。手には、彼が幼い頃に亡くなった父親の写真が握られていた。


「うちの子は……うちの恭平はどこ!?」


看護師が案内しようとするが、幸代は泣き叫びながら処置室の扉に駆け寄った。


「お願い……お願いやから、助けて……! あの子は、明日卒業式なんよ……やっと一花ちゃんと......!」


その声に、処置室の中の医師たちが一瞬だけ目を伏せた。


続いて病院に到着したのは、兄・真宙だった。ジャージ姿のまま、息を切らして駆け込んできた。


「恭平……!」


彼は扉の前で立ち尽くし、震える手で壁を叩いた。


「なんでや……なんでこんなことに……!」


そして、最後に駆けつけたのは妹・智恵美。制服姿のまま、涙で顔を濡らしながら、母の背中にしがみついた。


「お兄ちゃん……お兄ちゃん死んだらあかん……! うち、まだ何も言ってへん……!」


処置室の中では、医師たちが懸命な処置を続けていた。


「心拍、低下! 血圧、60台! 意識反応なし!」


「アドレナリン投与! 人工呼吸器、準備!」


モニターの音が、ピッ……ピッ……と不規則に鳴る。


その音が、家族の心を締めつけていた。


幸代は、扉の前で膝をつき、夫の写真を抱きしめ、震える声で呟いた。


「恭平……あんた、あんたは……うちの宝やった……。どんなに不器用でも、どんなに無茶しても……うちは、あんたのこと、誇りに思ってたんやで……お父ちゃん、どうかあの子助けてあげて、お願いや。」


真宙は拳を握りしめ、涙をこらえながら言った。


「俺が……バイク売り払ってたら、こんなことに……。」


智恵美は、母の背中に顔を埋めて泣きじゃくった。


「お兄ちゃん……うち、うちのこと、いっつも守ってくれてたやん……。だから、今度はうちが赤ちゃん守るって……言いたかったのに……!」


そのとき、処置室の中で、モニターの音が変わった。


ピッ……ピッ……ピ――――


「心停止! CPR開始!」


医師たちが叫び、胸骨圧迫が始まる。


「アドレナリン、もう一度!」


「反応なし! 再度ショック!」


家族は、扉の外でその音を聞きながら、ただ祈るしかなかった。


そして――


医師の一人が、静かに処置を止めた。


「……時間、20時42分。死亡確認」


その言葉が、処置室の空気を凍らせた。


扉が開き、医師がゆっくりと頭を下げる。


「……ご家族の方、どうぞ」


幸代は、震える足で処置室に入った。


そこには、静かに横たわる恭平の姿があった。


顔には、穏やかな表情が残っていた。


まるで、夢の中で一花に会えたかのように。


幸代は、息子の手を握り、泣き崩れた。


「恭平……うちの子……うちの……」


真宙は、弟の額に手を添え、涙を流した。


「……お前は、最後まで、家族に迷惑かけやがって」


智恵美は、兄の胸に顔を埋めて、声を上げて泣いた。


「お兄ちゃん……うち、ずっと忘れへんから……ずっと、ずっと好きやから……!」


そのときだった。


病院の自動ドアが、静かに開いた。


風が、夜の空気を運び込む。


そこに立っていたのは、一花だった。


手には、小さな靴下。編みかけのまま、糸がほどけていた。


彼女は、息を切らしながら、受付に駆け寄った。


「如月恭平さんの……事故に遭った人の……」


看護師が、静かに頷いた。


「……処置室へどうぞ」


一花は、震える足で歩き出した。


処置室の扉が開く。


その瞬間、彼女の目に映ったのは――


静かに横たわる恭平の姿。


その周りで泣き崩れる家族。


そして、彼の右手に握られた、安産のお守り。


一花は、言葉を失った。


足が止まり、靴下が床に落ちた。


「……うそやろ……?」


彼女の声は、風に溶けていった。


涙が、頬を伝い、床に落ちる。


「……恭平……」


その名を呼んだ瞬間、処置室の空気が震えた。


家族が振り返り、一花の姿を見た。


幸代は、涙を流しながら、彼女に手を伸ばした。


「……来てくれたんやね……」


一花は、ゆっくりと歩み寄り、恭平の手に触れた。


その手は、もう温もりを失っていた。


けれど、彼女の心には、確かに彼の声が響いていた。


「明日な」


その言葉が、風のように、彼女の胸に届いていた。


――と、そのとき。


処置室の扉の向こうで、小さな声がした。


「……あの……如月さんの……ご家族の方でしょうか……?」


看護師の後ろに立っていたのは、一組の親子だった。


母親は、深く頭を下げた。


その隣にいた男の子も、額に絆創膏を貼り、左腕に小さなギプスをしていた。


母親の声は、震えていた。


「うちの子が……あの事故で……助けてもらったんです……」


「トラックが来たとき、あの方がバイクでトラックの進路を変えてくれて……」


言葉が詰まり、彼女の肩が小刻みに震えた。


「……ほんまに、すみません……! あの人が……あの人が庇ってくれへんかったら……」


涙が床に落ちた。


母親は、息を詰まらせながら頭を下げ続けた。


その手が震えているのは、どうしようもない罪悪感のせいだった。


男の子は、母親の影から顔を出した。


唇を噛みしめながら、右手に持った小さな犬のぬいぐるみを握りしめていた。


「……おにいちゃんに、ぼく、ちゃんと“ありがとう”って……」


その声が、処置室に響いた。


一花は、涙をこぼしながら、恭平の手を握りしめた。


「――聞こえたよ、なぁ恭平。ちゃんと届いてるやんな……」


幸代は、嗚咽をこらえながら母親に向かって首を振った。


「……あんたらが謝ることちゃう……。恭平が、守りたかったんやと思う……あの子、そういう子やったから……」


母親は、崩れ落ちるように泣いた。


夜の風が、処置室のカーテンをやさしく揺らした。


その風は、まるで恭平の想いを包み込み、


彼が救った命の上を、そっと撫でていくようだった。



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