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第十五章 風の中の約束

三月の夕暮れ。空は淡い茜色に染まり、街の輪郭が少しずつ夜に溶けていく。


卒業式を翌日に控えたその日、恭平は胸の奥に抑えきれない衝動を抱えていた。


「会いたい」


その気持ちは、約束を越えて、彼の心を突き動かした。


半年以上、一花とは一度も会っていない。


連絡も取っていない。


滝野家との約束、如月家との誓い。


すべてを守ってきた。


けれど、今日だけは――どうしても、彼女の顔が見たかった。


制服のまま、恭平は静かに家を出た。


母には何も告げず、玄関の鍵をそっと閉める。


バイクのカバーを外し、エンジンをかける。


久しぶりに聞くエンジン音が、胸に響いた。


風を切って走る道。


街の灯りが流れていく。


一花の家の前に着くと、恭平はエンジンを止め、そっと小石を拾った。


彼女の部屋の窓を見上げて、軽く投げる。


小石が窓に当たる、かすかな音。


コツン――その響きは、恭平の胸を強く打った。


カーテンがゆっくりと揺れ、窓が開いた。


その瞬間、時間が止まったように感じた。


そこにいたのは、一花だった。


髪をゆるく束ね、少しふっくらした頬。窓越しに見える彼女の姿は、記憶の中の一花よりも、ずっと柔らかく、ずっと美しかった。


「……恭平」


その声が、風に乗って届いたとき、恭平の胸は熱くなった。


「……元気か?」


声が震えそうになるのを、必死で抑えた。


一花は、窓の縁に手を添えながら、そっと微笑んだ。


「うん……元気やで。恭平こそ、元気やった?」


「まあな……」


二人は、言葉少なに、ただ笑顔で手を振り合った。


その仕草に、半年分の想いが詰まっていた。


一花の目には、うっすらと涙が浮かんでいた。


「……ほんまに、来てくれたんやね」


「見たかったんや。顔だけでもええから」


「うちも……ずっと、会いたかった」


その言葉に、恭平は小さく頷いた。


「じゃ、明日な」


それ以上は言えなかった。言えば、きっと約束が崩れてしまう。


一花は、窓から彼の背中を見送った。


その背中は、風の中に溶けていくようだった。


けれど、胸の奥には、確かに灯がともった。


「……待ってるからな。明日になったら、ちゃんと会いに来てや」


その声は、風に乗って、恭平の耳に届いていた。


彼は振り返らず、ただ前を向いて走り出した。


一花の笑顔が、まだ瞳の奥に焼きついていた。


「明日な」


その言葉が、風に溶けていく。


ヘルメットの中、息が少しだけ荒くなっていた。


胸の奥が、熱く、そして静かに疼いていた。


そのまま帰るには、何かが足りない気がした。


恭平は、近くの神社へとバイクを走らせた。


境内は静かで、夕暮れの光が石畳を淡く染めていた。


彼は、社務所で小さな安産のお守りを手に取った。


「これ、ください」


巫女が微笑みながら手渡してくれたそのお守りを、恭平はそっと胸ポケットにしまった。


一花のために。


まだ見ぬ命のために。


そして、自分の未来のために。


帰り道、風は少し冷たくなっていた。


でも、胸の中には確かな温もりがあった。


交差点に差しかかる頃、空はすっかり夕暮れ色に染まっていた。


信号は青。


恭平は、まっすぐ前を見ていた。


その瞬間だった。


右側から、異様な音が迫ってきた。


ゴォォ――という重低音。


視界の端に、巨大な影が飛び込んでくる。


大型トラック。

赤信号を無視して、狂ったようなスピードで交差点へ突っ込んでくる。


「――危ないっ!」


恭平は反射的にブレーキを握った。


急制動すれば、自分だけならギリギリ止まれる――そう理解した瞬間だった。


視界の先。


横断歩道の中央に、幼い男の子が犬のぬいぐるみを抱きしめて立ち尽くしていた。


青信号に安心して母親の手を離してしまったのだろう。


母親は数歩後ろで凍りついている。


(このまま止まったら――間に合わない)


ブレーキは正しい選択“だったはず”だ。


自分の身だけを守るなら、止まれる。


トラックの直進を止める手段は――無い。


だが、その直線の先に、子どもがいる。


恭平は、一瞬で覚悟を決めた。


アクセルを一気に開ける。


バイクが悲鳴を上げ、体が前へ押し出される。


「行けッ……!」


狙うのは、トラックの左側面前部。


真正面からぶつかれば潰されて終わる。


だが側面をかすめるように体当たりすれば、わずかでも進路がずれる。


それだけで、子どもは救える。


トラックの巨大な車体が迫る。


風圧が皮膚を刺す。


(止まるんじゃない……動け……!)


母親が叫んでいる。


子どもは震えながら、ただ立ち尽くしている。


「間に合え――ッ!」


衝撃。


金属がねじ切れる轟音が耳を突き抜ける。


バイクは横倒しになり、恭平の体は前方へ投げ出された。


空が回り、街灯が線を描き、視界が反転する。


アスファルトに叩きつけられる刹那――


トラックは左方向へ大きく振られ、子どものわずか手前で軌道を外れていった。


母親が息子を抱きしめ、その場にしゃがみ込む姿が、恭平の視界の端に映った。


(……よかった。間に……合った……)


そう思った瞬間、視界が白く弾けた。


バイクはオイルを漏らしながら倒れ、道路には血と油がみるみる広がっていった。


通行人の悲鳴が、遠くで響いた。


「誰か! 救急車!」


「人が……人が倒れてる!」


誰かが駆け寄る。誰かが叫ぶ。


けれど、恭平の耳には、もう何も届いていなかった。


彼の手には、安産のお守りが握られていた。


一花と、未来の命のために買った、たったひとつの願い。


それだけが、彼の指の間に残っていた。


救急車のサイレンが、遠くから近づいてくる。


赤い灯が、夕暮れの街に滲んでいた。


担架に乗せられた恭平の体は、動かない。


制服は血に染まり、ヘルメットは割れていた。


隊員の声が飛び交う。


「脈、弱い! 呼吸浅い! 急げ!」


その声も、風にかき消されていく。


その頃、一花は部屋で静かに針を動かしていた。


小さな、赤ちゃん用の靴下を編んでいる。


「もうすぐやね。明日卒業したら、恭平にゆっくり会える。きっと、喜んでくれるよね」


窓の外は、夕焼けに染まっていた。


風が、静かにカーテンを揺らす。


そのとき――


遠くで、救急車のサイレンが鳴った。


一花は、ふと手を止めた。


胸の奥が、ざわついた。


「……なんやろ」


けれど、その不安は、まだ言葉にならなかった。


彼女は、編みかけの靴下を見つめながら、微笑んだ。


「もうすぐ、ゆっくり会えるから」


その言葉が、静かに部屋に溶けていった。


交差点では緊張感が漂い、警察官たちが慌ただしく現場検証を行っている。


黒ずんだ血痕が、冷たいアスファルトに痛々しく残っていた。


風が吹いていた。


その風は、どこか遠くへ、何かを運んでいくようだった。


そして、空は、静かに夜へと変わっていった。

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