第十三章 約束の灯
大阪に戻された一花は、滝野家の一室に閉じ込められるようにして暮らしていた。
スマホは取り上げられ、外出は厳しく制限された。
学校への復帰も許されず、母の監視の目は常に鋭かった。
「あなたのしたことは、家族の恥よ」
その言葉は、毎朝のように浴びせられた。
「……でも、私は恭平と一緒にいたかっただけ」
一花の声は、母には届かなかった。
父は何も言わず、ただ新聞をめくるだけ。
食卓に並ぶ料理の湯気さえ、冷たく感じられた。
家の中は、沈黙と緊張に満ちていた。
一花は、毎日同じ部屋で過ごした。
窓の外の空は広いのに、心は狭く閉じ込められていた。
お腹は少しずつ膨らみ始めていた。
制服はもう着られなくなり、鏡の前でそれを見つめるたびに、もう戻れないことを実感した。
「……恭平、会いたいよ」
スマホはない。連絡手段もない。ただ記憶の中の彼に語りかけるしかなかった。
夜になると、布団の中でそっと目を閉じる。
恭平の声、牧場の風、子牛のぬくもり――すべてが遠くなっていく。
ある日、祖母が訪ねてきた。
祖母の澄子は、六十代に見えない若々しい祖母だった。
控えめで、いつも柔らかな笑顔を浮かべている。
厳格で冷たい母とは正反対で、一花にとっては、心の奥にそっと寄り添ってくれるような存在だった。
母が席を外した隙に、澄子はそっと一花の手を握った。
「一花ちゃん。あんた、強い子やね」
「……強くなんかないよ」
「でも、命を守ろうとしてる。それは、誰にもできることやない」
その言葉に、一花は初めて涙を流した。
誰かが、自分の選択を肯定してくれたことが、何よりも嬉しかった。
澄子は、そっと小さなノートを渡してくれた。
「毎日、書いてみ。恭平君に伝えたいこと、赤ちゃんに話したいこと」
ノートのカバーは、淡い水色だった。
角が少し擦れていて、澄子が長く使っていたもののようだった。
「ありがとう……」
一花は、その日からノートに言葉を綴り始めた。
それは、恭平との記憶をつなぎ、未来の命に語りかけるための、静かな祈りのような時間だった。
「今日は少しだけお腹が重かった。 でも、あなたが元気に育ってるって思うと、嬉しい。 恭平、あなたに会いたい。 でも、私はちゃんと待つよ。 約束したから。」
ノートに書く時間は、一花にとって唯一の自由だった。
誰にも見られず、誰にも邪魔されず、自分の気持ちをまっすぐに言葉にできる場所。
「今日は、窓の外に冷たい風が吹いてた。
街路樹はすっかり葉を落として、枝だけが空に向かって伸びてる。
冬が来たんやなって、しみじみ思った。
あなたが生まれる頃には、きっとこの寒さも和らいで、柔らかい風が吹いてるはず。
春の匂いがして、陽射しもあったかくて……そんな季節に、あなたに会えると信じてる。
恭平、あなたも、どこかでこの冬を感じてる?
冷たい空気の中で、うちのこと、少しでも思い出してくれてたらええな。」
一花は、少しずつ自分の中に芽生える母性と向き合い始めていた。
お腹の中の命は、確かにそこにいた。
動くたびに、一花の心も動いた。
「私は、守る。どんなことがあっても」
その言葉は、誰にも聞かれていなかった。
けれど、一花の中では、確かな誓いとなっていた。
ある夜、澄子がもう一度訪ねてきた。
「一花ちゃん、名前は考えてる?」
「……まだ。でも、恭平と一緒に考えたかった」
「そっか。でも、あんたが決めてもええんやで。恭平君は、きっと喜ぶ」
「……うん。考えてみる」
一花は、ノートの最後のページをそっと開いた。
そこに、静かにペンを走らせる。
まず、男の子だった場合の名前。
「陽翔」
それは、恭平と一花が牧場で語り合った未来の名前だった。
「春の風に乗って、翔ぶ子になってほしい」
そして、女の子だった場合の名前。
「陽菜」
それもまた、二人が夢見た春の陽だまりのような子の名前だった。
「太陽のように、あたたかく、優しい子に育ってほしい」
一花は、ページをそっと閉じた。
外の世界はまだ遠い。
けれど、心の中には確かに灯がともっていた。
それは、恭平との約束。
そして、これから生まれてくる命との絆。
一花は、静かに目を閉じた。
風の音が、窓の外で優しく鳴っていた。




