第十二章 風の中の決断
十月の北海道。
牧場の空気は澄み渡り、朝晩の冷え込みが少しずつ冬の気配を運んできていた。
木々は色づき始め、風が吹くたびに葉が舞い、地面に静かに降り積もる。
その日、佐伯は町へ買い出しに出かけていた。
牧場の倉庫に足りない工具と、食料の補充。
いつも通りの用事だったはずだった。
スーパーのレジ横に置かれた新聞の束。
何気なく手に取ったその紙面に、佐伯の目は釘付けになった。
「未成年男女の行方不明 関西で捜索続く」
そこに載っていたのは、一花と恭平の顔写真だった。
一瞬、心臓が止まったような感覚。佐伯はその場に立ち尽くした。
指先が震え、新聞を握る手に力が入った。
(……どういうことや)
佐伯は、新聞を畳んでポケットに入れた。
そのまま何も言わずに買い物を済ませ、牧場へ戻った。
夕食の時間。
一花は台所で味噌汁を温め、恭平は薪ストーブの火を調整していた。
いつも通りの静かな夜。
けれど、佐伯の胸の中には、重いものが沈んでいた。
食卓では、美智子が煮物をよそいながら、佐伯の様子をちらりと見た。
「あなた……何かあったの?」
佐伯は箸を置き、黙って頷いた。
「……町で新聞を見た。あの子らの顔が載ってた」
美智子は手を止めた。
一花も、恭平も、何も気づかずに支度を続けている。
「どうするの?」
「……わからん。あの子たち、よく働いてくれてる。うちの息子、娘みたいなもんや」
「でも、見つかったら……」
「……それを考えてる。俺たちが黙っていたら、あの子たちはずっと逃げ続けることになる。子どもも生まれる。そんな不安定な生活で、守れるのか?」
美智子は静かに頷いた。
「健康保険証もない。母子手帳も作られてない。病院にも行けない。そんな状態で、赤ちゃんを育てるなんて……」
佐伯は、深く息を吐いた。
「……俺も、そう思う。あの子たちがどれだけ頑張ってても、現実は厳しい。このままだと、守るどころか、失うことになるかもしれん」
「通報するの?」
「……あの子たちの将来のために。今は苦しくても、きっとその方がいいと思う」
その言葉を口にした瞬間、佐伯の胸に重くのしかかるものがあった。
夕食後、佐伯は一人、納屋の前に立っていた。
風が吹き抜け、乾いた葉が足元を転がっていく。
納屋の扉には、恭平が整備した道具が並んでいた。
几帳面に並べられたスコップ、ホース、工具。
その一つひとつに、彼の誠実さが滲んでいた。
(……あいつ、本当にいい子や。一花ちゃんも、よくやってる)
佐伯は、ポケットから新聞を取り出した。
写真の中の二人は、どこか怯えたような表情をしていた。
(こんな顔、させたくない)
けれど、現実は待ってくれない。
子どもが生まれる。
その命を守るには、社会の中で生きる覚悟が必要だった。
佐伯は、空を見上げた。
星がちらほらと瞬いていた。
「……すまんな。恭平、一花。俺は、君らを守りたい。だけど、それには、ちゃんとした道を歩いてもらわなければダメなんや」
その言葉は、風に乗って夜空へと消えていった。
佐伯は、ゆっくりと歩き出した。
納屋の扉を閉め、家へ戻る。
その背中には、重い決断の影が落ちていた。
数日後の朝。牧場の入り口に、数台の車が止まった。
警察の車、如月家を乗せた車、滝野家を乗せた車。
一花は、牛舎の奥からその光景を見ていた。
心臓が、冷たい手で掴まれたように跳ねた。
「恭平……来た」
恭平はすぐに状況を察し、一花の手を握った。
「逃げるで。今は、お前を守らなあかん」
「でも……うち、もう……」
一花はお腹に手を当てた。
身重の身体では、もう走れない。
「絶対迎えに来る。約束する。だから、今は……俺だけ行く」
その言葉に、一花は涙をこらえながら頷いた。
恭平は、一花の手をそっと離すと、プレハブ小屋の裏手へと足を向けた。
「絶対迎えに来る。信じて待っててくれ」
その言葉を残し、彼は牧場の柵を越えようとした。
だが、そこにはすでに一人の男が立っていた。
「……もうええ。帰るぞ、恭平」
兄・真宙だった。
腕を組み、険しい目つきで恭平を見据えていた。
「邪魔すんな。今は、一花を守らなあかんねん」
「守る? お前が? 逃げ回って、親にも迷惑かけて、何が守るや。現実見ろや!」
「うるさい!」
恭平は叫び、真宙に向かって突っ込んだ。
二人の体がぶつかり、地面に倒れ込む。拳が飛び、泥が跳ねる。
兄弟の殴り合いは、言葉ではもう止められないほど激しかった。
「やめて! お願い、やめて!」
一花が叫びながら駆け寄る。だが、足は震え、身体は思うように動かない。
その声に、もう一人の少女が走ってきた。
「やめてよ! 恭平兄ちゃんを殴らないで! お願い、もうやめて!」
泣きじゃくりながら、妹・智恵美が兄・真宙の腕にしがみついた。
「真宙兄ちゃん……恭平兄ちゃんは、うちにとって、ただの兄ちゃんやない。ずっと憧れてたんや。優しくて、強くて、誰よりも――だからもう殴らんといて!」
その言葉に、真宙の拳が止まった。怒りの熱が、少しずつ冷めていく。
「智恵美……」
「うち、恭平兄ちゃんが誰かに取られるの、ほんまは嫌やった。でも、一花さんが恭平兄ちゃんのこと、ほんまに大事にしてるの、見てて分かってた……せやから、もう……もう、殴らんといて……!」
智恵美は泣きながら、兄の腕を引き止めた。
その場に、もう一人の女性が駆け寄ってきた。
「真宙、もうええ……もう、やめて……」
母だった。涙を流しながら、真宙の背中から腕を回し、抱きしめた。
「恭平は、あんたの弟や。あんたが守ってきた子やろ? せやけど、今は……あの子、自分で選んだんや。一花ちゃんと、生きるって」
真宙は、拳を握ったまま、肩を震わせていた。
恭平は、泥だらけになりながら、ゆっくりと立ち上がった。
顔は腫れ上がり、唇から血が滲んでいた。
それでも、彼の目はまっすぐに一花を見つめていた。
「一花……絶対、迎えに行く。信じて待っててくれ」
一花は、涙で何も見えなくなりながら、ただ頷いた。
その瞬間、風が牧場を吹き抜けた。
牛たちが静かに鳴き、空はどこまでも広がっていた。
恭平は、警察官に促されるように車へと向かい、乗り込んだ。
その背中を、一花は牧場主夫婦に支えられながら、最後まで見送った。
「ごめんな……苦しかった。でも、おまえ達二人をを守るには、これしかなかった」
佐伯の言葉に、一花は何も言えなかった。
美智子がそっと肩を抱いてくれた。
「あなたは、強い子よ。恭平くんも、きっと戻ってくる」
けれど、現実は容赦なく二人を引き離した。
一花はそのまま、滝野家の車に乗せられ、大阪へと戻ることになった。
牧場の風は、何もなかったかのように吹き続けていた。
けれど、一花の胸の中には、恭平との約束だけが、静かに残っていた。




