第十一章 引き裂かれる風の中で
朝五時。まだ空は薄暗く、牧場には冷たい風が吹いていた。
恭平は牛舎の掃除と餌やりを担当していた。
長靴の底がぬかるみに沈み、シャベルで糞をすくいながら、牛たちの低い鳴き声に耳を傾ける。
「おはよう、恭平くん。今日も早いね」
声をかけてきたのは、牧場主の奥さん・美智子だった。
五十代半ば、穏やかな笑顔が印象的な女性だった。
美智子はカップにお茶を注ぎ、恭平に差し出した。
「ありがとうございます。助かります」
「若いのに、よく働くわね。うちの主人も感心してるのよ」
恭平は少し照れたように笑い、カップを受け取った。
牧場主の名は、佐伯誠一。
六十代前半、元教師という経歴を持ち、定年後にこの牧場を始めた人物だった。
口数は少ないが、目の奥には深い優しさが宿っていた。
「君たち、事情は聞かないよ。でも、ここで働きたいなら、しっかりやってくれればそれでいい」
一週間たった日、そう言ってくれた佐伯の言葉が、一花の胸に深く残っていた。
一花は搾乳室で子牛の世話をしていた。
まだ慣れない手つきでミルクを与えながら、小さな命の温もりに触れていた。
「この子、昨日より元気になったね」
一花が子牛の頭を撫でながら笑うと、恭平が牛舎の扉から顔を出した。
「お前の声、ええ薬なんちゃうか」
「なにそれ……恥ずかしいやん」
一花は、子牛の頬をそっと撫で、照れくさそうに笑った。
昼休み。美智子が作ってくれる味噌汁と炊きたてのご飯が、二人の疲れた身体を優しく包んだ。
「若い子が来てくれて、うれしいわ。うちも年だから、助かるのよ」
「ほんまに……ありがとうございます。うち、ここに来れてよかったです」
「一花ちゃん、食べるの遅いけど、ちゃんと食べてる?」
「はい、ちょっと胃が重くて……でも、頑張ってます」
「無理しないでね。体は資本だから」
その言葉に、一花は少しだけ目を伏せた。
夜。プレハブの小屋は古く、電気は弱く、風の音が壁を揺らしていた。
けれど、その静けさが心地よかった。
「……ここ、好きかも」
一花がぽつりと呟いた。
「俺も。ここなら落ち着ける気がする」
「うち、ずっと走ってばっかりやった。誰にも見つからんように、誰にも邪魔されんように。でも、ここは……止まってもええ気がする」
「止まってええよ。ここで、生きていこ」
二人は、風の音を聞きながら眠りについた。
ある朝、一花が搾乳室でふらつき、壁に手をついた。
「大丈夫か?」
「……ちょっと、疲れただけ」
けれど、その日から一花の顔色は冴えず、食欲も落ちていた。
数日後、美智子がそっと一花に声をかけた。
「一花ちゃん、ちょっと話せる?」
「はい……」
「もしかして……赤ちゃん、できたんじゃない?」
その言葉に、一花は目を見開いた。
「……え?」
「女の子の顔を見れば、なんとなくわかるのよ。私も昔、同じような経験があってね」
一花は、静かに頷いた。
「……たぶん、そうです」
その夜、一花は恭平に伝えた。
「うち……赤ちゃん、できたみたい」
恭平は何も言わず、一花の手を握った。
言葉にできないほどの驚きと、喜びと、不安が入り混じっていた。
「……守る。絶対に」
一花は涙をこぼしながら、頷いた。
秋の風が、牧草地を静かに撫でていた。
一花は、子牛の世話をしながら、ふと空を見上げた。
この場所に来てから、毎日が穏やかだった。
恭平と過ごす時間、牧場主夫婦の優しさ、そしてお腹の中で育つ命――すべてが、静かな幸福だった。
けれど、その平穏は突然崩れた。




