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第十章 限界の先へ

パン工場の仕事も、すっかり手慣れて、生地の感触も、オーブンの熱も、


いつの間にか、日々のリズムの一部になっていた。


しかし、不穏な影は少しずつ忍び寄っていた。


ある日、工場の配達先から戻った運転手が言った。


「今日な、スーパーで『恭平くんと一花ちゃん、なんやどっかで見た気ぃする』って言うおばちゃんおってな……何や新聞で見たとか見ぃひんかったとか、はっきりせなんだけどな」


別の日には、近所の住民が「最近、工場に若い子が急に増えたけど、あれ高校生ちゃうん?しかも住み込みって…なんか怪しくない?」と、どこか不審そうに噂していた。


一花はその言葉を耳にして、心臓が跳ねるのを感じた。


夜、布団の中で一花は不安を吐き出した。


「……うちら、また見つかるんかな」


「大丈夫や。ここで真面目に働いてたら、誰も何も言わへん」


そう言う恭平の声にも、どこか自信がなかった。


そして数日が経った頃、予感は現実になった。


ある午後。


工場の事務所に、一本の電話が入った。


「すみません。こちら、大阪南児童相談所の者です。未成年の従業員がいるとの通報がありまして....」


その声に、中村は一瞬、受話器を握る手を止めた。


以前、ネグレクトの少年を保護したときに連絡した、あの職員だった。


「アルバイトの子やったら、未成年の子何人かいますけど……」と、少し戸惑いながら口を開いた。


「いや、住み込みで働いてる高校生らしき人がいるとのことで......一度確認をと思いまして....」


受話器を置いた中村の顔からは、いつもの笑顔が消えていた。


その夜、二人は休憩室に呼び出された。


「ちょっと、話あるねん」


向かい合った中村は、声を潜めるように言った。


「児相からや。前にネグレクトの件で動いてくれた職員さん。今回は、あんたらが未成年ちゃうかっていう通報が入ったらしい。警察にも情報が回ってるかもしれん。たぶん、近いうちに来ると思う」


一花は、顔を伏せた。


「……また、逃げなあかんのやな」


「……せやな」


中村は少しの間を置いてから、柔らかい声で言った。


「君ら、ほんまによう働いてくれた。正直、うちにとっても助かってた。……でも、守りきれへん。ごめんな」


一花は唇を噛み、深く頭を下げた。


「……ありがとうございます。ほんまに、ありがとうございました」


「次どこ行くかは聞かへん。でも、気ぃつけてな。二人で、無理せんと生きるんやで」


その夜。一花と恭平は、荷物をまとめ、工場を後にした。


駅までの道を歩きながら、一花はぽつりと呟いた。


「うちら、また逃げるんやな……」


「でも、逃げてるだけちゃう。生きてるんや。二人で、ちゃんと前に進んでる」


「……そやな。うち、恭平と一緒なら、どこでもええ」


「そや。また、二人で頑張ろな」


電車がホームに滑り込んできた。


その車両に乗り込む瞬間、二人は手を強く握り合った。


それは、誰にも邪魔されない未来への、小さな決意だった。


パン工場を離れてから数日。

ネットカフェで夜を明かしながら、二人は次の居場所を探していた。


財布の中の現金は、残りわずかになってきた。


生きていくには働かなければならない。


「……あのパン工場、悪くなかったんやけどな、皆ええ人で」


「うん。中村さん、めっちゃええ人やった……」


駅前の掲示板を見ていた恭平が、ふと一枚のチラシに目を留めた。


「清掃スタッフ募集 未経験可 日払い応相談」

手書きの文字と、簡素な地図。

電話番号は書かれていない。


「……これ、直接行くしかないな」


地図を頼りに、二人は住宅街の一角へ向かった。


そこには、小さなプレハブの事務所があり、前には作業車が数台並んでいた。


「ここやな……」


恭平が呟いたそのとき、扉が開いて、中から作業服姿の男性が顔を出した。


四十代半ば。日焼けした顔に、優しい笑みが浮かんでいた。


「おはようさん。求人見て来たんか?」


「はい。すぐ働ける仕事、探してます」


「履歴書は?」


「……ないです。事情があって」


男は少し黙ったあと、うなずいた。


「佐野って言うんや。うちは人手足りひんし、やる気あるなら歓迎や。」


「はい。よろしくお願いします」


「うちは現場仕事やから、体力いるで。でも、慣れたら楽しいわ。人の役に立つって、ええもんや」


「頑張ります」


制服を受け取り、二人は更衣室で着替えた。


一花は髪をひとつにまとめ、帽子を深くかぶった。


恭平は黙々と作業着に袖を通した。


最初の現場は、マンションの共用部清掃だった。


一花は階段の手すりを拭き、恭平はゴミ置き場の整理を任された。


作業は地味だったが、住民から「ありがとう」と声をかけられるたび、胸が温かくなった。


「一ちゃん、拭き方きれいやな。丁寧やわ」


「ありがとうございます。うち、細かいとこ気になるタイプなんです」


「ええことや。掃除は気ぃ遣える人が向いてるんやで」


昼休みには、佐野がコンビニのおにぎりを差し入れてくれた。


「若い子はよう食べるやろ。遠慮せんと食べや」


「ありがとうございます。ほんまに助かります」


「恭平くんも、ええ動きしとる。筋あるで」


「ありがとうございます。まだまだですけど、頑張ります」


その言葉に、恭平は少しだけ笑った。


朝はまだ空が白む前に目を覚まし、制服に袖を通す。


冷たい水で顔を洗い、眠気を振り払ってマンションの清掃現場へと向かう。


エントランスのガラスを磨き、階段を一段ずつ拭き上げ、ゴミ置き場の異臭に耐えながら袋を運ぶ。


そんな中、顔なじみの住人が「いつもありがとうね」と声をかけてくれることがある。


その一言が、疲れた心にじんわりと染みる。


昼前には次の現場、オフィスビルへ移動する。


ビルのフロアを順に回り、トイレの洗浄、廊下のモップがけ、ゴミ箱の回収。昼食はコンビニのおにぎりを立ったまま口に運ぶだけ。


休憩らしい休憩もなく、時間に追われるように午後の作業が始まる。


夕方、事務所に戻ると、今度は雑務が待っている。


清掃用具の補充、翌日のシフト確認、報告書の記入。そんな日々の中で、佐野社長はいつも気にかけてくれていた。


「よく頑張ってるな。無理すんなよ」と声をかけてくれるその優しさに、救われる思いがした。


時には缶コーヒーを差し入れてくれることもあり、社長室の前を通るたびに、自然と背筋が伸びた。


そんな単調な日々が、気づけば4か月続いていた。


ただ、手のひらの皮が厚くなり、腰に鈍い痛みが残るようになったことだけが、時間の経過を教えてくれる。


それでも、住民の笑顔と社長の言葉が、がむしゃらな日々の中に小さな灯をともしてくれていた。


単調だったが、二人にとっては「居場所」だった。


佐野社長は本当に二人を可愛がっていた。


叱るよりも褒める人で、一花は「気の利く子や」と可愛がられ、恭平も「根性あるな」と信頼を得ていた。


「一ちゃん、ええ子やなぁ。将来はきっとええお母さんになるで」


「そんなん……恥ずかしいです」


そんな何気ない会話が、一花に小さな希望を与えていた。


夜は清掃会社の社員寮で並んで眠った。


疲れていたが、「ここでなら、少しだけ生きていけるかもしれない」と二人は思い始めていた。


その均衡は、ふとした偶然で崩れた。


ある昼下がり。


マンションのエントランス。

陽射しを反射してきらめく床を、一花は黙々とモップで磨いていた。


帽子を深くかぶり、顔を隠すようにしていたが――その声は、容赦なく背後から突き刺さった。


「……一花?」


一瞬で血の気が引いた。

心臓が跳ね、呼吸が乱れる。


振り返ると、そこに立っていたのは美咲だった。


「……美咲……?」


声が(かす)れた。

帽子の影に隠れても、視線だけで正体を見抜かれてしまった。


美咲の目が見開かれ、次第に険しく細められていく。


「なんで……こんなとこに……?」


その声は震えていた。

驚き、怒り、哀しみ――そして、嫉妬。


一花は喉が詰まったように言葉を失う。

やっと絞り出したのは、必死の懇願だった。


「……お願い。誰にも言わんといて」


美咲の手がポケットに伸びる。

スマホを握りしめる指が、わずかに震えていた。


「一花……うち、ずっと心配しててん。あんたが急に消えて、なんの連絡もなしで……。

みんな必死で探してるんやで。家族も……恭平くんの家族も」


その言葉に、一花の瞳が揺れた。


「でもな……」


唇を震わせながら続ける。


「うちは……恭平と一緒におらなあかんねん。ここでしか、生きてるって思えへんの」


絞り出すような声。

涙が頬を伝い、モップの柄を強く握りしめた。


美咲は一歩、踏み出した。


「……あんた、ほんま最低やな」


一花は目を見開いた。


「うちのこと、親友って言ってたやん。信じてたのに……全部、嘘やったん?」


「違う……! 美咲、うちは……」


「黙って!」


美咲の声が鋭く響いた。


「恭平くんのこと、ずっと好きやった。うちは、ずっと見てた。あんたが近づくたびに、うちの居場所がなくなっていった」


「……美咲……」


「なんであんたばっかり! 可愛い顔して、みんなに好かれて、恭平くんまで奪って……!」


その目には、涙と怒りが混ざっていた。


「うちは、あんたに全部持ってかれた。友情も、信頼も、好きな人も。……もう黙ってられへん」


スマホの画面がタップされようとする。


「やめて!」


一花は思わず美咲の手を掴んだ。


「お願いや……! 恭平を奪わんといて……うちらの居場所を壊さんといて……!」


美咲はその手を振り払った。


「居場所? 逃げてるだけやん。あんたら、ただの現実逃避や。そんなもん、守る価値あるん?」


二人の視線が激しくぶつかる。


やがて、美咲の唇がわずかに震えた。


「一花。……うち、もう黙ってられへん」


その瞬間、一花は走り出していた。


清掃用のカートを押しのけ、エントランスを飛び出す。


背後で美咲が何か叫んでいたが、もう耳には入らなかった。


心臓の鼓動が、足音と重なって響く。


(見つかった。終わる。全部、壊れる)


でも――まだ間に合う。


恭平に伝えなければ。

この場所から、また逃げなければ。


「恭平!」


「どうしたんや?」


「見つかった……もう、ここもあかん」


佐野に事情を話すと、彼はしばらく黙ったあと、深くため息をついた。


「そっか……残念やけど、しゃあないな。君ら、よう頑張ってたよ」


一花は涙をこらえて頭を下げた。


「すんません……ほんまに、ありがとうございました」


「気ぃつけてな。次は、もっと遠く行った方がええかもしれんな」


その夜。二人は夜行バスのチケットを買い、北へ向かった。


「北海道、行こか」


「うん。もう、誰にも見つからへんとこまで」


バスの座席に並んで座り、一花は窓の外を見つめた。


「うち、もう逃げる場所も、働く場所も、限界やと思ってた。でも……恭平と一緒なら、まだ行ける気ぃする」


「俺もや。一花がおるから、前に進める」


「ありがとう。ほんまに、ありがとう」


バスは静かに走り出した。夜の街を抜け、遠くへ、遠くへ。


如月家のリビングには、テレビの音だけがぼんやりと響いていたが、誰も画面を見ていなかった。


母・幸代は、ソファに座ったまま、何度もスマホの画面を確認していた。


既読にならないメッセージ。


「どこにおるん?」「無事なん?」


送った言葉は、どれも返事がないまま、画面の中に並んでいた。


「そらそうや、スマホなんか持ってたらすぐに位置がわかる……そやけどあの子ら、ほんまにどこ行ったんやろ」


幸代は、ため息をつきながら立ち上がり外に出た。


庭の隅に置かれた黒いバイクが、静かに佇んでいた。


恭平がいつも乗っていた愛車。


その車体に、埃が薄く積もっていた。


「……恭平、置いてったんやな」


幸代は、バイクのハンドルにそっと手を添えた。


冷たい金属の感触が、胸にじんと響いた。


「風、気持ちええって言うてたやん……恭平、今どこで風感じてるん?」


その言葉は、誰にも届かない。


ただ、夜の空気に溶けていくだけだった。


二階では、兄・真宙が机に向かっていた。


大学のレポートを開いたまま、手は止まっていた。


「……あのアホ・・」


スマホには、警察からの連絡履歴が残っていた。


「女性と一緒に行方不明になっている可能性があります」


そう告げられたとき、真宙は言葉を失った。


「一花さんと……? なんでやねん」


彼は、弟のことを理解しているつもりだった。


無口で、感情を表に出さない。


けれど、芯は強く、家族思いの男だった。


「……なんで、誰にも言わんと行くんや」


苛立ちと心配が混ざった感情が、胸の奥で渦巻いていた。


一方、妹の智恵美は、自室のベッドに座っていた。


スマホを握りしめたまま、涙をこらえていた。


「お兄ちゃん……なんで、うちに何も言わんかったん?」


彼女は、兄のことが大好きだった。


誰よりも信頼していたし、誰よりも近くにいたいと思っていた。


「一花さんと一緒に……うちのこと、もういらんって思ったん?」


その問いは、誰にも答えてもらえない。


ただ、胸の奥で繰り返されるだけだった。


智恵美は、兄の部屋にそっと入った。


机の上には、整然と並べられた工具と、バイクのメンテナンスノートが置かれていた。


ページをめくると、細かい整備記録がびっしりと書かれていた。


「チェーン調整」「オイル交換」「タイヤ空気圧」――


その几帳面さに、智恵美は涙をこぼした。


「……お兄ちゃん、ほんまにバイク好きやったんやな」


そのバイクが、今は家に置かれたまま。


兄は、別の場所で、別の風を感じている。


「……帰ってきてよ。うち、まだ話したいこといっぱいあるのに」


智恵美は、兄の部屋の窓を開けた。


冷たい風が、カーテンを揺らした。


その風の向こうに、兄の気配を探すように、彼女は目を細めた。


その夜、如月家の三人は、それぞれの場所で、恭平のことを思っていた。


言葉にはできない不安と、届かない願い。


それでも、家族の心は、確かに彼を探していた。


そして、家の前に置かれた黒いバイクは、静かにその思いを受け止めていた。


エンジンは止まったまま。


けれど、その車体には、家族の祈りが宿っていた。


「……恭平、無事でいてな」


幸代の声が、夜の空に溶けていった。


朝。バスが停車したのは、広大な草原の前だった。


「……ここ、牧場やな」


「うん。何もツテはないけど……ここで、なんとかしたい」


二人は、荷物を持って牧場の門をくぐった。


牛の鳴き声、風の音、土の匂い。すべてが、これまでの逃避行とは違っていた。


牧場の奥から、作業服姿の男性が歩いてきた。年配の男性で、帽子の下から優しい目が覗いていた。


「君たち、旅行かい?」


「いえ……仕事を探してて。ここで、働かせてもらえませんか?」


男性は少し驚いたように目を見開いたが、すぐに妻らしき女性が後ろから現れた。


「あなた、どうするの?」


「……うちも人手が足りてないし、若い子が来てくれるなら助かるよ」


「でも、身元は?」


「……事情があるんです。すみません」


女性はしばらく黙っていたが、やがて静かに言った。


「じゃあ、まずは一週間。様子を見て、それから考えましょう」


「ありがとうございます……ほんまに、ありがとうございます」


「うち、精一杯やります」


「俺もです。よろしくお願いします」


牧場の朝は、静かに始まっていた。


それは、逃げ続けた二人が初めて「根を下ろす」と決めた場所だった。

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