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第九章 パン工場と少年

二人が乗った駅から数駅離れた町。


二人は、人気のない商店街の裏路地にある古びたネットカフェで一夜を過ごした。


財布の中には、わずかな現金。


「……働かな、すぐ詰むな」


恭平が呟いた。


「でも、うちらの名前出したら、すぐバレるかもしれん」


「履歴書も身分証もないしな……」


二人は、駅前の掲示板に貼られた求人チラシを見つめた。


その中に、手書きの文字で「パン工場スタッフ募集 即日可 日払い」の紙があった。


「電話番号しか書いてへん……」


「電話はせん方がええ。直接行ってみよ」


工場は、町外れの住宅街の裏手にあった。

朝の空気に混じって、パンの焼ける匂いが漂っていた。


鉄の扉を叩くと、しばらくして中から女性が顔を出した。


髪を後ろでひとつに束ねた、50代くらいの女性。

白い作業着に、少し粉がついている。


「……何か用?」


「求人見て……すぐ働ける仕事、探してます」


女性は二人をじっと見つめた。

その目は鋭かったが、どこか人情の温度も感じられた。


「履歴書は?」


「……ないです。事情があって」


女性は少し黙ったあと、ため息をついた。


「……中村って言います。責任者やけど、うちは人を見るんよ。履歴書より、目の方が信用できる」


恭平と一花は、思わず顔を見合わせた。


「今日から来れる?」


「はい」


「じゃあ、手洗って、髪まとめて。制服あるから、着替えてもらうわ」


工場の中は、機械の音とパンの香りに満ちていた。

制服を渡され、髪をまとめ、手袋をはめる。


誰も、名前を聞いてこなかった。

誰も、過去を詮索しなかった。


それだけで、一花は少しだけ救われた気がした。


中村は、作業の合間にぽつりと言った。


「うちは、逃げてる子も、迷ってる子も、よう見てきた。ここでは、ちゃんと働いてくれたらそれでええ」


その言葉が、胸に染みた。


一花と恭平はそれぞれの持ち場に案内された。


一花は包装ライン。


焼き上がったパンを袋に詰め、シールを貼る作業だった。


恭平は生地をこねる工程。


大きなミキサーの前で、粉と水を計量し、機械に投入する。


「恭平くん、力あるなぁ。助かるわ」


「ありがとうございます。まだ慣れてへんけど、頑張ります」


工場の人たちは、思った以上に優しかった。


「おはよう、一ちゃん。今日も元気やね」


「はい、元気です。よろしくお願いします」


朝の挨拶が、一花の心に染みた。


誰も詮索せず、ただ「働く人」として接してくれることが、何より嬉しかった。


そうして日々が過ぎ、気づけば二か月が経っていた。


最初は早朝勤務に体がついていかなかった二人も、徐々に生活のリズムを掴んでいった。


一花は包装のスピードが上がり、先輩から「手ぇ早いな」と褒められるようになった。


ラインの責任者に任される日も出てきて、誇らしい気持ちを味わった。


恭平も、生地の配合を正確にこなせるようになり、中村から「センスあるで」と声をかけられた。


大袋の小麦粉を軽々と運ぶ姿に、周囲も「若いのはええなぁ」と感心していた。


昼休みには、一花がこっそり持ち帰った規格外のパンを二人で分け合った。


公園のベンチで笑い合いながら食べるその時間は、二人にとってささやかな青春のひとときだった。


「一花」


「ん?」


「こうしてると、ほんまに逃げてるって感じせぇへんな」


「うん。うちも、ちょっとだけ……普通の高校生に戻れた気ぃする」


「でも、現実は戻ってけぇへん」


「……せやな」


それでも、二人は少しずつ「ここでなら生きていけるかもしれない」と思い始めていた。


ある晩のことだった。


工場の裏口で、恭平は廃棄用のパンをまとめていた。


そのとき、フェンスの向こうで何かが動いた。


「……誰や?」


ライトを向けると、十歳くらいの少年がしゃがんでいた。


汚れたままの服に、手には汚れたビニール袋。中には廃棄されたパンと、くたびれた毛布が見えた。


「パン、拾ったんか?」


少年は小さく頷いた。


その顔は泥で汚れ、唇は乾いてひび割れていた。


「腹、減ってるんやろ」


恭平はまだ余っていた焼き立てのパンを差し出した。


少年はためらいながらも、両手で受け取ってかじった。


その食べ方が、胸に刺さるほど切なかった。


「妹も……おるねん。団地の階段のとこで待ってる」


恭平はすぐにネグレクトと悟った。


「じゃあ、まだあるから持って帰り」


少年は、満面の笑みを浮かべてパンを抱えた。


「ありがと、お兄さん」


翌朝、一花に話すと、彼女は少し黙ってから迷いのない声で言った。


「その子……放っとかれへんね。うちらも“見て見ぬふり”はできひん」


二人は夜、再び少年を待った。


少年は怯えた顔で現れ、か細い声で言った。


「……叩かれて、怒鳴られた。何もしてへんのに。急に、『うるさい』『邪魔や』って……」


「誰に?」一花が静かに尋ねる。


「お母さんとお母さんの……友だち。」


少年の目は怯えていた。


「妹も一緒におったけど、泣いてしもて。『泣くな』って怒鳴られて、蹴られそうになった」


恭平の拳がわずかに震えた。


「それで、逃げてきたんか?」


少年は小さく頷いた。


「今までやったら公園におったけど、ここなら……誰も怒らへんと思って」

 

一花はそっと少年の肩に手を置いた。


「うちらが一緒におる。もう怖い思い、させへん」


少年は、ほんの少しだけ頷いた。


その目には、希望と不安が入り混じっていた。


古びた団地の一室。


外からでも、荒れた空気が伝わる。

 

階段の隅には、毛布にくるまった小さな女の子がいた。


恭平はノックした。


中から無精髭の男が出てきて、あからさまに睨みつけてきた。


「何や、お前ら」


「この子のことです。夜中にパン取りに来てました。事情、聞かせてもらえますか」


「勝手にやっとるだけやろ。拾うぐらい好きにさせとけや」


その奥から、化粧の落ちた女がふらりと現れた。


少年の母親だった。


「もう、うるさいなあ……あんたら誰?」


酔っているのか、手には缶チューハイを握り、焦点の合わない目で二人を見た。


「この子たち、外で寝てましたよ」一花が言う。


「うちも大変なんよ。仕事なくなってさ。あの子ら、言うこと聞かんし。勝手に出てくねん」


女はため息をつき、男の肩にもたれた。


「私かて好きでこんな暮らししてへん」


けれど、その言葉には温度がなかった。



恭平は低い声で問う。


「それで、子どもにパン拾わせるんか」


女は、目を逸らして笑った。


「食べたいんやったら、自分でなんとかしたらええやん。あの子、頭ええし」


その瞬間、一花が前に出た。


「せやけど、子どもにパン拾わせて、妹を外で寝かせるんが“大人の仕事”ですか?」


男は一瞬、言葉に詰まった。


母親も視線を落としたまま、何も言わない。


恭平が静かに続ける。


「金がなくても、誰かを傷つけへん生き方はできる。


それを放り投げて“金がない”って言い訳するんは、ただの怠けや。」


男は顔をしかめて睨んだ。


女は、どこか遠い目で天井を見ていた。


恭平は一歩も引かず、真正面から見据えた。


「この子な、昨日『パンがあるだけで、妹が泣かん』って言うてた。


あんたら、それ聞いて何とも思わんのか? それでも“保護者”って名乗るんやったら、今この瞬間からち


ゃんと人間に戻れや」


静まり返る室内。


一花の目にも涙が浮かんでいた。


恭平はゆっくりとスマホを出した。


「児相、もう呼んでる。あんたらを潰したいわけやない。


ただな――この子らが、もう“拾わんでええ夜”を過ごせるようにしたいだけや。」


母親は唇を噛み、ぽろりと涙をこぼした。


「……私、どうしたらええんやろ」


その声は、酔いも強がりも消えていた。


恭平は小さく答えた。


「それ考えるんが、親のはじまりや」


やがて、児童相談所の職員が駆けつけた。


少年と幼い妹が保護されるとき、少年は恭平の手をぎゅっと握った。


「……ありがと。」


その手は、冷たくて、でも確かに生きていた。


帰り道、一花が呟いた。


「恭平、すごかったな。大人を黙らせた」


「怒るより、ちゃんと話したかっただけや」


「でも……児相に連絡したとき、スマホ使ったん?」


一花は心配そうに尋ねた。


「電源入れたら、位置情報で居場所バレるかもしれへんやん……」


恭平は少し笑って、首を振った。


「ちゃう。あれは見せただけや。実際に連絡したんは、工場の事務所の電話や。


スマホは“見せるための道具”やっただけや」


一花はほっとしたように息をついた。


「そうなんや、よかった。」


「それはそうと、あんた、ほんまに“風”みたいやな」


「風?」


「優しいけど、止まらん。誰かの背中押すやつ」


恭平は少し照れながら笑った。


夜風がふたりの間を抜け、遠くの街灯を揺らした。



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