終わったのかな
翌日の夜。
初めて音が鳴った、あの時間。
私はひとりで、もう一度、ひよりの部屋を訪れていた。
確認したかった。
ほんとうに終わったのかどうかを、自分の目と耳で。
でも、部屋には──何もなかった。
あれだけ感じていた異様な空気も、カーテンの視線も、ピリッと張りつめた気配も。
まるでぜんぶ、幻だったかのように消えていた。
……ただし。
壁の一角には、昨夜アヤが切り開いた穴がそのまま残っていた。
石膏ボードがむき出しで裂け、配線やパイプが絡みつくように見える。
隣の部屋へと続く小さな空洞は、今もぽっかりと口を開けていた。
観測機器と録音装置は、まだその場に据えられたまま。
何も起きない空間を、ただ淡々と記録し続けている。
異常なし。異常なし。……異常なし。
……でも、それが逆に妙に不気味だった。
「……終わった、のかな」
思わずこぼれた言葉に、答えるように背後から足音がした。
振り返ると、そこにアヤが立っていた。
いつもの紅茶のカップを片手に、いつもの調子で。
背後には、例の黒服メイド。ピクリとも動かず、相変わらず静止画みたいだった。
「ええ。終わったのよ」
アヤは淡々と告げた。
「まがいものだった。つまり、人間の手によるもの。だから、物理と法で片がついた」
「……なんかさ」私はぽつりとこぼす。
「怪異って、出たらラッキー!くらいに思ってたけど……こういうのは、本当に笑えなかったな」
アヤがふっと微笑む。
「オカルト好きのあなたがそう言うなら、相当ね」
私は小さく肩をすくめた。
「幽霊ならさ、祟りとか理由とか、何かしら筋が通ってる気がするんだよ。
でもこれは……気づかないうちに、じわじわ侵されていく感じで……リアルでゾッとした」
アヤは紅茶をひとくち含んで、言った。
「理屈が通らないのが怪異。けれど──理屈が通りすぎるのも、怖いものよ」
──そのときだった。
開け放たれていたクローゼットの中から、
「コン」
あの音が、確かに鳴った。
「……え?」
反射的に、アヤのほうを振り返った。
そして私は──
「ひいっ!?」
声にならない悲鳴が、勝手に口から飛び出す。
アヤが、笑っていたのだ。
それも、いつもの皮肉交じりのニヒルなやつじゃない。
紅茶を片手に余裕たっぷり、でもなければ、冷静沈着な実践オカルト研究会長でもない。
目を見開き、頬はほんのり紅潮していて。
何より、その唇の端の『にやっ』とした曲線が──あまりにも素すぎた。
──まるで、廃盤オカルト本の初版を奇跡的に見つけたコレクターの顔だった。
「やばい……アヤさんが壊れた……?」
思わず私は一歩後ずさったけれど、当の本人はまったく意に介さず。
タブレットを操作しながら、当たり前のように続けた。
「今の音……記録されてる。波形、これ。昨日と一致。時間も、ぴったり同じ」
タブレットを操作しながら、アヤはカメラのログを切り替えていく。
「音源、特定完了。――クローゼット内部」
彼女は一息つき、静かに言った。
「最初に調査した時点で、物理的な仕掛けはなかった。断言できるわ。振動源も、隠し配線も、音響トリックも……すべて排除済み。
なのに、決まった時刻に、毎晩同じ音が発生している」
その声には、はっきりとした興奮がにじんでいた。
「再現性はある。検証も済んだ。けれど……まだ“本物”と断ずるには、証拠が足りない。
でもね……記録としては、あまりにも魅力的すぎる」
私は思わず、呟いていた。
「……じゃあ、これって、本物の可能性が――」
アヤは紅茶をひとくち含んで、目を細める。
「判断は保留。でも、観測を続ける価値はある」
──数日後。
昼下がりのキャンパス。
私は、実践オカルト研究会の部室でアヤの向かいに座っていた。
机の上には、観測データが表示されたタブレット。
波形、音圧、空気圧、気温のログ……そのすべてが、ぴたりと“同じ時刻”に揺れている。
「これが、毎晩」
アヤはわずかに高揚した声で言った。
「録音ログは、0時ちょうどにコツンという音。
波形も温度も空気圧も、微細な変化がすべて一致している」
背後には、いつもの黒服メイド。
黙ってティーポットとカップを構えたまま、完璧な静止状態。
アヤが紅茶を一口含むと、すっと角砂糖が補充された。
「誤差は最大でも0.3秒。位置、音圧、波形──すべて一致。偶然では説明できない。
だから、今夜、最終判断を下すわ。……来る?」
私は息をのんだ。
やばい。これ、やばいって。
胸の奥がざわざわする。背筋を何かが走る。
心臓はドラムロール状態。指先は小刻みに震えてた。
『本物かもしれない』。
そのフレーズだけで、脳内に花火が打ち上がる。
今まで見たどんなホラーより、どんな噂話より、断然リアルで、断然アツい。
これはもう──行くしかないっしょ。
私は、ためらいゼロで、頷いた。
数時間後。
私は夜の街をひとり歩き、あの部屋へと向かっていた。
アヤに指定された時間通り、エントランスを抜け、エレベーターに乗る。
ボタンを押す指が、かすかに震えていた。
当然、ひよりは来ていない。
一応声はかけたけど、あんなことがあった部屋にもう一度足を踏み入れるなんて、絶対に無理!と半泣きで否定された。
いま彼女は大学近くのビジネスホテルで仮住まい中。
結局そこもひとり部屋なんだけど……それでも、あの部屋よりは全然マシなんだろうな。
私物はアヤが預かって、引っ越し用にすでに梱包してあるって聞いてる。
部屋のドアを開けた瞬間、異様な光景が目に飛び込んできた。
クローゼットのまわりが、銀色の金属板で完全に覆われていた。
まるでそこだけ、実験施設みたいだった。
金属板から、うねるように何本ものホースが伸びていて、
その先には、よくわかんない機械が何台も並んでいた。
ゴウン……って低く唸る音がしてて、それだけで“なんかすごいこと起きてる感”がビンビン伝わってきた。
「……なにこれ、研究所?」
思わず口にした私の声に、奥からアヤの声が返ってくる。
「簡易真空チャンバーよ」
紅茶を片手に、アヤがさらりと言った。
「クローゼットの周囲だけを完全密閉して、空気を限界まで抜いてあるわ。中で音が発生したとしても、空気がなければ伝わらない。
もしそれでも聞こえるなら──それは非物理的現象」
堂々と言い放つアヤの発言に一瞬納得しかけた……けど、そう来る!?
「いやそれはそうかもしれないけど! どうやったらそういう発想に行きつくの!?」
「中学校の義務教育レベルなのだけど」
「いやそうだけどそうじゃなくて……あああ、どうしたら伝わるのォォォ!!」
「さあ、観測開始よ」
私の魂の叫びは完全に無視され、アヤの一言で、照明が落とされた。
部屋は機器のランプだけが淡く光る、静かな実験空間に変わる。
ホースからの吸引音がやがて止まり、真空チャンバーの内部気圧が安定。
時計の針が──0時ちょうどを指す。
──10分。何も起きない。
──20分。ノイズも誤作動もない。
──30分。完璧な静寂。
「……終わり、ね」
アヤの声が、少しだけ低かった。
「何もないという観測記録。それも、ひとつの結論」
私はふと、口を開いてしまった。
「……でも、本物って……そんなにあっさり観測されてくれるもんなのかな」
アヤは一瞬だけ私を見て、やわらかく目を細める。
「本物が、科学に付き合ってくれるとは限らない。か。」
そう言って彼女は、そっと紅茶のカップを置いた。
銀色のチャンバーの奥。
クローゼットは、まるでそこだけ異なる法則に支配されているかのように、静かに、沈黙していた。
──科学の最先端が、逆に理解を超えるものに見えるなんて。
私は思った。
もしかして、これそのものが怪異なんじゃないかって。
そう思えてしまうほどに、この部屋は──静かで、不気味だった。