表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
傾城にて  作者: 百島圭子
9/26

9

旦那様は阿蘭陀商館に出掛けられる時にきぬ様に港に行くか、家にいるかどちらかを言いつけられました。そして暫くはほぼ毎日のように私はきぬ様のお供で港に通うようになりました。


「フウ、どちらの櫛かんざしが合うかねえ・・・」

と、きぬ様はお仕度の時に聞かれます。私はあれもいいこれもいいと言ってみますが、最後はいつも黒地に赤い椿の櫛かんざしに落ち着きます。


「やっぱりこれかねえ・・・」

「きぬ様のお肌にはその色が一番お似合いです。」


私の返事も結局いつも同じなのです。私にはこのお決まりの会話が安い村芝居を演じているように思えましたが、きぬ様にとって心の浮き立つ台詞であることを知っておりました。黒い櫛かんざしはヨーステン様に褒められたことがあるのです。


きぬ様のお気持ちはつるんと丸い水晶玉のようで、たった一つを大事に胸に抱えておられるようでした。それは一つしかなくてヨーステン様を思われる気持ちが結晶になって捧げられるのです。私はまだひとつも持っていませんでしたが、ひとつっきりを大切に抱えているのが幸せなのかと思っておりました。その時はきぬ様が幸せに見えたからです。


 今日は家にいるようにと旦那様に言いつけられると、きぬ様の顔は暗くなります。どうやって明日の朝までを過ごそうか難儀されているようでした。以前のように、一日書物に向かわれたり、何か書きつけられたりすることがなく、何を始められてもすぐにお終いにして他のことをされます。着物の手入れをされることが多くなったでしょうか。外に出られることも多くなったように思いました。何か落ち着かないようなご様子でしたが、お優しさは変わりませんでした。


港に行かない日のことです。陽が陰って涼しくなってきたので、きぬ様のお供で呉服屋に行きました。


「きぬ様、今日は何をご覧になるのですか?」

「欲しいものはないんだけどねぇ。」


 特にご用ではなく、今日はのんびりと反物を見られるようでした。反物を見ながら話をされるのも気晴らしになるのでしょう。店に近づくとなにやら騒がしく、店の前に人だかりができておりました。きぬ様の影から人垣の中の様子を覗き見ると、役人の前で店の者たちが真鍮の板を順番に踏んでおります。


あれは絵踏みというもので板には十字架や女の人が彫ってあるときぬ様が教えてくださいました。もし役人に踏むように言われたら、何も考えずにすぐに踏みなさいと言いつけられました。伴天連は邪宗門を日本に持ってきて人心を惑わせているらしいのです。その為お奉行様はパードレに心を渡してしまった人を絵踏みで探しているそうです。


番頭の五之助さんが後ろ手に縄を掛けられて人だかりから出てきました。


「今日はもういいわ。フウ、帰りましょう。」

「はい。」


きぬ様が足早に歩かれるので、おいて行かれぬように急ぎました。ご様子がおかしいので、

「きぬ様、大丈夫ですか?」

と道すがら尋ねました。見上げたきぬ様の目には涙が溜まっているようで驚きました。


「ええ、私は大丈夫。五之助さんがお可哀そうで。」

「え?」


私は今しがた役人に連れられて行った五之助さんの姿を思い出しました。五之助さんはきぬ様が反物を選ばれるときいつもいろんなことを教えてくださいます。五之助さんのお話は面白く、ついつい引き込まれてしまいます。お話上手なだけでなく、きぬ様と話されると必ずきぬ様のお好みにぴったり合った反物を小僧に言いつけて持ってこさせます。お好み以上の時もありました。生まれついての商人だったのでしょう。客の考えていることをすべてわかっているようでした。きぬ様と五之助さんの弾むやり取りが思い出されます。


「いいかい、フウ、私が今言ったように可哀そうなどと人前で口にしてはいけないよ。絶対にいけないよ。」


きぬ様はきっぱりと私を見つめておっしゃいました。


「はい、わかりました。」


 私は五之助さんが役人に連れて行かれるのは解せませんでしたが、この先どうなるのか知らず一切の想像も浮かびませんでしたので、可哀そうなどとも思いませんでした。五之助さんが切支丹だったということに驚いただけで、ただきぬ様の言いつけにお答えしました。


「お前は神様を信じるかい?」


きぬ様に問われて私は申しました。


「目に見えずともどこにでも神様はおあします。だから悪いことをすると罰が当たるのです。」


そう話すとにっこり笑って、

「それでいいのよ。そう思ってなさい。」

と、きぬ様は言われて頬を撫でてくださいました。


 切支丹は邪宗だと言われ厳しく禁じられております。神も仏もよくわかりませんが、私にはきぬ様の言いつけだけが絶対でした。


「いいかい、もしさっきのように板を踏めと言われたらすぐに踏むんだよ。」


きぬ様はまた繰り返し私にきつく言われました。


「はい。」

「板には十字架にはりつけられた人や、長い布を纏った女の人が彫られてあるが、それは切支丹の神様だよ。どんな神様でも踏まれたくらいで怒りはしない。神様は人間なんかよりずっとずっと大きいんだから。いつも守ってくださっているんだから。いいね。すぐに踏むんだよ。」

「はい、わかりました。」


私は旦那様に殴られても踏まれても怒らないきぬ様は、本当に神様なのではないかと真剣に思いました。家に帰る道をきぬ様の後ろから歩いていると、何度も優しい笑顔が振り向いてくれます。神様は本当にあちらこちらにあられるのだと思いました。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ