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傾城にて  作者: 百島圭子
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旦那様はとても厳しい方で配膳の立ち居振る舞いが悪いと私は幾度も叩かれました。きぬ様はその度に私を抱えて下がるように促してくださいました。そうすることで私以上にきぬ様が旦那様に叩かれるのですが、いつも守ろうとしてくださいました。


私は庇われるということを初めて経験して、きぬ様のためなら何でもしようと強く思うようになりました。


旦那様はいつも機嫌が悪く、怒っていらっしゃるようでした。か弱いきぬ様に辛く当たることが多く、私にはこんなにも美しくお優しい奥様の何が気に入らないのか解せませんでしたが、やがてきぬ様が子供を産まないということが旦那様のお気に召さないのだということがわかりました。


お子様が授からない奥方様はおられます。きぬ様もたまたまそのようなお身体だったのでしょう。旦那様はお妾を囲うようになり、私は男の子が生まれないように祈っておりました。


旦那様がお出かけになると、きぬ様は私に文字を教えてくださいました。きぬ様の御父上は大名の役方でいらして小さい時から漢詩の手習いをしてくださったそうです。女子に手習いをさせるのは珍しいことですが、きぬ様にはご兄弟がなく、きぬ様が男よりずいぶんと賢くいらしたからだと思います。


きぬ様のおかげで一年も経たないうちに私は高札や看板の文字もいくらか読めるほどになりました。高札の文字が頭の中の文字と合致したときは世の中が突然色を持ったようでした。目の前の世界が広がったのです。あの素晴らしい感覚は今でも鮮やかに蘇り決してこの先消えることはないでしょう。


しかしきぬ様との時間が増えるとカツの仕打ちはますます厳しくなりました。掃除や洗い物のことだけでなく、寝起きすることにまで手を出してきました。カツとは同じ物置部屋で休んでおりました。カツの鼾は大きくなかなか寝られないのが常でしたが、ある晩、私が床につこうとすると布団が濡れておりました。


「おや、寝しょんべんかい?汚いね、傍に来るんじゃないよ!」


カツのにやけて歪んだ唇は寝返りを打って眠りにつき、鼾の轟音が始まりました。朝起きたときは何もなかった布団に、水をまかれたようでした。その日一日きぬ様のお供で外に出掛けておりましたことが気に障ったのだと思います。


冷たい布団が乾くまで数日はかかりました。それでも年かさの女に歯向かう術を知りません。その晩は部屋の隅で丸まって眠りました。冬がそこまで来ている秋口の寒さとカツのいびきは私をこの世に引き止めましたが、体の疲れが眠らせてくれました。


三日に一度ほど下男の滝三という者が薪を持ってやってきます。滝三は小柄ですが力の強い男で、いつも汗の酷い匂いがしておりました。私は臭くて近寄りたくないのですが、カツは滝三が来ると嬉しそうに目配せしました。


「ちょっと裏に回っておくれ。重ねた薪が崩れてたよ。」


カツは滝三に合図して外に出て行きます。私は臭い滝三に関わらずに済んでよかったと思いましたが、薪が崩れたのは私のせいではないかと気に掛かり、思い直して裏に見に行きました。


家の裏の角までくると土塀を背に二人が重なって立っているのが見えました。荒げた声や声にならない息が聞こえました。カツは着物の前が開け(はだけ)滝三はカツに寄りかかり臭い体を擦り付けています。私はここに居てはいけないと瞬時に固まった両足を溶かして家に戻りました。


カツの崩れた顔と二人の息が残って纏わりつくので何とか払い落とそうとしていると、

「じゃあ、また頼んだよ。」

と、何事もなかったようにカツが台所に戻り、その後に滝三がやって来て、

「またな。」

と帰って行きました。


上機嫌で高揚したカツの頬が赤らんで、私はいつにもましてカツを見たくありませんでした。それからは薪が崩れたと聞いても絶対に見に行きません。


旦那様の御膳が終わると台所でカツとご飯をいただきます。カツは旦那様とほぼ同じものを食べています。量はカツのほうが多いかもしれません。機嫌の良いときはたまに私にも煮付けた野菜をくれます。でも機嫌が悪いと米さえもらえず汁だけの時があります。そんな日は余計に寝付けません。腹に気がいって早く朝になれと思うばかりです。でも滝三の来た日は煮付けをくれることが多く、二人の獣の息さえ思い出さなければ滝三の来る日は私にとって良い日となりました。


一日の仕事も覚え、カツの意地悪にも慣れ、きぬ様の笑顔だけを頼りに時が過ぎていきました。平戸に来て為末様のお世話になってから何年か過ぎた頃でしょうか、カツの縁談話が持ち上がり焼継屋の後妻になることが決まりました。


私が御膳のお仕度を完全にできるようになるまで少しの間、通いで奉公に上がるという約束でカツは嫁いでいきました。朝来ては夕方には帰るので、私は一人で眠ることができて、何を気に掛けることもなく(いびき)を聞くこともなく静かに過ごせるようになり喜ぶところでしたが、意地悪にせよ自分に関わっていたことが突然空洞になると些か気の抜けたようになりました。


それまで張っていた気が緩まって無駄にあれやこれやと考える時間が増えてしまったようでした。人間は考えると不幸になるばかりです。滝三が来るとカツは変わらず家の裏に出て行きます。獣の熱い息には触れたくありませんから、私はいつものように何も考えないようにしました。


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