【序章】覚めやらぬ夢幻
「(やだ。もう本当にやだ。スーツのオヤジとお兄さんには誘拐されそうになるし、命の恩人はエロ魔神だし、目の前のやたらデカい学生さんはドSトリッキーだし……)」
言いようのない感覚。けれどこれには覚えがある。
「やだ……っも、う」
今日の涙は一際大粒だ。
「え、」
視界が揺れる。もう男の子の前だからとか初対面だからとか、そんなことはどうでもいい。
「帰り……っ、たい、よぉ……しにっ……たくな……っ」
「それは無理っす」
「なん、で……っ」
暫く無言でこっちを見ていた学生の彼は、一つ息をつくと担いでいたエロ魔神を躊躇なく廊下に放り投げ、あたしの元へ歩を進めた。
虚しくドスンと響く音と、多分年上であろう投げられた当人の悶絶する声は完全スルーして目前に立った彼は未だ無表情だ。
「現状も自分の立場も把握していない今、出来る事は何もない……そう言ったんです」
「ど……ゆ、こと」
現状とか、立場とか、何を意図しているのか見当もつかないのにそんなこと言われても。
「ここにいる限り安全で、少なくともここにいる人間は敵じゃない、としか」
「み、かたって……こと?」
「敵になることだけは確実にないです」
また涙腺が緩む。もっとソフトな言い方してくれたっていいのに。
「なので今は体を休めることを優先してください」
こんなことになるなら、もっと世界中のプリンを制覇しとくんだった。授業も寝ないで受けとけばよかった。部活もすっぱりケリつけるべきだったんだ。
悔やまれることはたくさんある。
「あと数時間したら忙しくなりますから」
「?」
ひた、と首に添えられた彼の手にあたしは顔を上げた。相変わらず彼は口を一文字に結んでいたけど、心なしか笑っているようにも見えた。
そして、
「楽しみです。姐さん」
「ね……っ、」
今度は首の後ろに衝撃が走った。
一瞬の嘔吐感に襲われて、だけどそれを凌駕するほどの脱力感に、またあたしは気絶させられるのかーとか思いながら自身の気が遠退くのを感じた。
抑揚のない声と共にサラッと手刀をかました彼は今度こそふわりと笑っていて。
ぐったりとベッドにカムバックしたあたしの額に当てられた手は冷たくて、すぐに眠りに落ちた。
*****
「……さま、紅様」
遠くから、心地よい声があたしを呼んでいる。
「紅様。お時間です」
「……ん」
「おはようございます」
「んー、おはようご……!!」
遠くだと思っていた声の主は、思いがけず近くにいた。
「朝食が出来上がっております。どうぞ下の階へ」
そしてその相手を見て、一気に我に返った。