【序章】掴まれた手
「(どうしようどうしようどうしようどうしようどうしようどうしよう)」
息は切れる、荷物も重い、道は滑るし周りは暗い。極めつけに人もいない。それもこういう時に限って家と反対方向に逃げて来てしまった。
……現状は最悪だ。
「(とりあえずちょっと遠いけどスーパーまで逃げてそれから友達に電話してそれで)」
「なるほど……こちらの世界の人間にしては随分と体力がありますね」
「(ワケわかんない!!なんでどうして目の前にさっきの人がいるの!?あたし追いかけられてたんじゃ)」
「ですが」
とにかく逃げようと踵を返す前に、とうとう誘拐犯があたしの肘をがっちりと捕らえた。その動きには無駄がなく、隙もない。
「やはり紅様の敵ではない」
「たすけ……っ」
「暴れない方が身のためですよ?」
キリキリと手首を締め上げながら背後に立ったスーツの人は、あたしの肩越しまで顔を近づいて呟いた。
きちんとした身なりと話し方からは想像出来ないほど、その言葉には有無を言わせないもの、所謂『ドス』が利いている。
けれど見た目といい、刹那に香るフレグランスといい、身のこなしといい、いろんな意味でフツーの人じゃない。
一方あたしは後ろ手に両手を拘束され、いよいよ恐怖と痛さに声もロクに出なくなっていた。力の差や体格の差も相俟って、何ひとつ抵抗出来ないままズルズルと元来た道を連れ戻されてしまう。
「……遅い」
「申し訳御座いません」
イライラとした低い声の主は先程スーツの人に指示を出していた人だった。黒塗りのワゴン車の前で仁王立ちしていて、近くで見ると中年太りの中年オヤジだ。
労いの欠片もないその人の言葉にも恭しく頭を下げたスーツの人は、ぐいぐいとあたしをワゴン車の中に押し込んだ。
「さっさと剥離玉を飲ませろ」
「御意」
やっとの事で両手が解放されたと思ったら、今度は片手で顎を掴まれた。同時にスーツの人が体重をかけてきたせいで身動きがとれない。
どこにこんな力があるんだろう、と生存を諦めた脳内で呑気にそんな事を考えていると、コツリと口元に無機質の何かが触れた。
「……っ」
『死』の恐怖心に涙が滲んで、それでも最後の抵抗で口を噤みながら睨みつけてみたけど、結局最後までスーツの人は無表情だった。
そして無機質の物体を持った長い指はあたしの口をこじ開け、何の躊躇もなく喉の奥までそれを押し込んだ。
まさかの事態に驚く余裕もなく、突如襲われた嘔吐感にあたしはとうとうそれを飲み込んでしまった。
「終了致しました」
即効性の薬の類なのか、飲み込んだ直後なのにもう気が遠くなってきている。
スーツの人越しにはワゴン車の外に立ち満足げな笑みを浮かべている、あの中年オヤジが見えた。
どうせもう死んじゃうなら最後くらい華やかで爽やかでフレッシュなものが見たかった、と思いつつあたしは意識を手放した。