【序章】末裔の宿命
時に仮説はそれまで『真』とされていたものを『偽』へと覆す
理系に携わるあたしはよく仮説とか命題とか、おおよそ理解が及ばない分野にも手を付けている。目下次年度から配属になる研究室の下準備に当たるからなのだが。
何かの文献にあった言葉がふと思い浮かんだのは、三十路イケメンのトリッキーな話を聞いてすぐだった。
さすがにアブナイ感マックスな現状なだけに暴れるわけにもいかず、かといって逃げるという選択肢は最初からなく。
そんな状況下に置かれて確実にあたしの寿命は5メートルくらい縮んだわけだけど、おかげで気付いたこともある。
仮に、あたしが今まで生きてきた現代と相反する『裏』の現代があったとして。
もしもその世界があらゆる『力』で支配されていて、『表』と全く同じ造りをした世界が全く違う秩序で保たれているとしたら。
その世の中では己の存在を巡って争いが起こる。
それを少しでも有利且つ有益に進めるために同盟を組む、という行為自体はありえない話じゃないし、その同盟がやがて大きな組織となり代々家業として受け継がれるようになったとしても、道理は通る。
けれど、神話や言い伝えにより『表』では伝説とされている生き物が『裏』では当たり前のように空を舞い、地を駆け、そして同盟一家の象徴として代々長に仕えているとしたら。
家督争い、裏切り、果ては家紋の悪用、同業者潰し……『力』が秩序故、あらゆる欲の為すがままになる。
そして仮に『表』に存在する自身と同等でありながら同一ではない、もう1人の己が『裏』に存在していて、その『裏』でのみ受け継がれる筈の家督が本来露見し得ない『表』の人間に託されようとしていたとしたら。更に歴代の長に仕えてきた家紋までもが、跡継ぎと称されてきた『裏』の己ではなく『表』を選んだとしたら。
確実に、何も知らない『表』の人間は反感を買う。滑稽なことにその相手は『裏』に存在する第二の己だ。
とまぁ、仮説と言うにはあまりにも不明瞭な命題。授業のレポートだったら即ボツ、テストとなれば貴重な単位とサヨナラしているだろう。
あの文献みたいに『真』が『偽』になるのも困るけど、検証するまでもなく『偽』だと断定していたことが『真』として覆るのも考えものだと思う。
けれど幸か不幸かこの仮の事実には確固たる証拠がある。なんせ昨日から今までにかけて、あたし自身がこの命題によーっく似た境遇に遭ったから。
それまで信じようとしなかったことを是とすると、怖いくらいに辻褄が合ってしまう。つまり今まで聞いたトリッキーな話が『真』で、その渦中、むしろその中心にあたしがいる。
そう気付くのに時間はかからなかったけど、我ながら凄まじい程の労力を費やしたと思う。
部下さん達の正面に堂々と座ったその人の隣へ、強引に座らされてから早数分。
思いのほか緊迫した空気と申し訳程度にあたしへ向けられた敵意らしき雰囲気は未だ緩和されることなく和室に充満している。なんかみんなからの視線がイタい。
とにかく今しなきゃいけないのは真相を確かめに行くことだ。
「あたし、あのレスターって人のとこ戻ります。戻らなきゃ、ダメな気がするんです」
隣で胡座をかく三十路イケメンに視線を向けると、射抜くような、心を読まれているような、あの鋭い眼差しが向けられた。
「……来い」
あたしはあえて何も言わなかった。その代わり目で訴えた。なんの確証もないけど、言わずとも『読んで』くれる気がしたから。
と、暫く無言だった相手は音もなく立ち上がった。鏡の下へ向かうその表情はどこか満足げだ。
「悪いけど俺は戻れない。逆に迷惑かけることになるだろうからな」
元の優しげな口調に戻っていた三十路イケメンの声を聞きながら、もう一度あたしは室内を見渡した。
「部下さん達は、」
「心配ない」
相手も室内を見渡して、そしてあたしを見た。
「次に戻る時には、お前がこいつらの上に立つんだ」
「はは……」
あたしは曖昧に笑うことでその言葉を流した。流すしかなかった。
「レスターのところに行くなら俺に会ったと伝えるんだ。椿って言えばわかる」
流したことを気にするでもなく、三十路イケメンは淡々としている。
期待はしていない、ということなのか。そういえば名乗られてすらいなかった。とは言ってもまだこの話に手を貸すと決めたわけじゃないし、あたしはあたしで勝手に呼び名を付けていたから不自由したわけでもない。
「じゃあな。上手くやれよ」
何が、とは言わない。言う必要がないのかあるいは……。
とりあえず、椿さんとやらが言ったこととレスターという人から聞いた話は共通するところがある。すでに何かに巻き込まれているなら、何に巻き込まれてるかを調べなくては気が済まない。
「(大学は……まぁ今まで皆勤だったし一週間くらいは仕方ないっ!!ってことにしよう不本意だけど)」
その思いを断ち切るように、あたしは鏡の縁に触れた。
「(固いじゃん)」
綺麗好きなあたしとしてはピカピカの鏡を素手で触るなんて出来ない。
「(指紋の汚れは案外頑固だしティッシュじゃ落ちないからね眼鏡拭き用のアレでもなかなか落ちないからね!!)」
「突っ込め」
「へ」
まごまごしていたあたしを容赦なく鏡に激突させにかかる椿さん。あっという間にあたしとそれとの距離はなくなる。けれど今回は前回の時を教訓に、大人しく身を任せることにした。
「紅姫組の末裔、か……」
体が軽くなる刹那。
椿さんが呟いたそれはこれから起こる出来事を予期させるかのように、重々しくあたしの中に響いた。