淑恵 ②
「アー、あ、なんですかアー、アーム?」
「アムゥチェント、蹄鉄。でも■■、■■つかわないことば、■■■できてる!」
転移してから八ヶ月、淑恵は義賊一派の雑用を手伝いながら、言葉の習得に励んでいた。状況に悩みながらも、ただ出してくれる物を食べて寝て、くよくよするだけの生活は嫌だと思ったのだ。
昼夜煮炊きが止まらず何人分になるのかと考えてしまう食事の用意、衣服の繕い、荷運びに靴磨き、灯りの手入れ等等仕事は尽きなかったが、特に掃除は毎日かなりの時間を掛けさせられた。
建物は石と木を織り交ぜた造りの上に窓も少ないので通気性も悪く、淑恵のいた地球世界とは比べ物にならないほど埃っぽい。子ども達や老人から会話を学びながら、淑恵は懸命に身体を動かした。
淑恵が驚いたのは、厨房とトイレにそれぞれ上下水道が通っていた事だ。街の外を流れる川から水を引いていると、ルナイが教えてくれた。
保護された当初はヨーロッパの山奥だと思っていたので、不便で汚いトイレとしか感じなかった。しかしここが異世界なんだと認識するにつれ、自分の中で基準にしていた地球世界における中世文明とのちぐはぐさが、目に付く様になっていった。
元いた地球では、中世ヨーロッパなどより紀元前のインダス文明や古代ローマの方がよほど清潔で、都市計画として下水道が整備されていたとテレビで観た事がある。ベルサイユ宮殿の中庭などは、排泄物を投げ捨てる為に酷い悪臭だったそうだ。
疫病が蔓延したのも下水道がなく、そこらに捨てていた杜撰さが原因だ。異世界の街全てがこうなのかは分からないが、淑恵の概念は覆された。
もっとも料理や飲料に使う上水道は、官憲に追われる義賊の隠れ家として人の出入りを極力減らすため、水汲みが要らない様にあとから密かに増設したらしく、一般的な設備ではないと聞いた。
雑用をこなす為には、当然寝起きしている区画から出る必要がある。立ち入りを制限されている所も多く、全てを行き来出来る訳ではないが、それでもこの隠れ家は、幾つかの隣接する建物同士が外からではそれと分からない様、死角を利用し巧妙に繋がれていて、かなりの広さがある事は実感出来た。
顔ぶれも、隠れ家で暮らす者は毎日見るが、そうでない者の方が多い。年齢も見た目も様々な男女が、何処からともなく入れ替わり立ち替わり、全部で何人いるのか把握など出来ないが、皆食堂でくつろぎ、あちこちにある寝室で休み、密室で何かの相談をし、準備して、いつの間にか姿を消す。
彼等がいったい何をしているのか淑恵には分からないが、明確な目的がある相当な規模の組織だという事は理解していた。
きっと、自分やルナイみたいな人達のために、いつも何処かで何かと闘っているのだろう、淑恵はそう思った。今は会話もままならず、とにかく生きるのに必死で、これからどうなるのかも考えられないし、考えると不安になる。
でももし、この一派の目的に共感出来たら、正式な一員になるのも良いかも知れない。そうすれば、何かが掴めるかも。ただ生きる為だけではなく、自分が進む為の指標のような、何かが。
「シュフェン、今日、一緒、外、仕事」
「外?ルナイと、一緒?」
「そう。蹄鉄、■■、家の人、■■■使う、■■■」
「ん、ん?フェダウ、んー、あ馬、馬屋!運ぶ?」
「いいえ、届ける。蹄鉄、届ける、馬屋」
「届ける、わかった!」
そして今日は、外での仕事を言い付かった。淑恵にとって、裸で運び込まれてから初めての外出である。
二人して地味な町娘の服に外套を羽織り、頭巾を下ろして顔を隠す。蹄鉄数脚の重みを感じる籠をひとつずつ持つと、知らず緊張している事に気が付いた。
隠れ家の出入り口も、壁や角の死角に偽装されている。その内のひとつからルナイに先導され、淑恵も薄暗い路地裏へと滑り出た。立ち止まらず素早く歩を進め、暗い角をいくつも曲がるルナイに、遅れないようついていく。
淑恵も隠れ家の出入り口、隠し扉の場所は分かっていたが、自分ひとりで外へ出てみようなどとは到底考えなかった。どんな危険があるか分かったものではないし、世話になっている義賊一派に迷惑を掛ける真似をしようとも思わない。
だが今、明るく人通りの多い場所へ近付くにつれ、淑恵はどきどきと高揚して来ていた。決して安全では無い。ここは異世界なのだ、気を抜くな。そう頭では考えていたが、いざ大通りへ出ると、その活気に圧倒された。
映画で観たハイウェイみたいに広い石畳みの道、両脇にひしめき合う露店、それぞれの用事でそれぞれに急ぐ、何百もの人々。売り買いの大声、陽気な喧騒。甲冑を着た者が何人ものしのしと歩き、見上げればいつか見たドラゴンが数頭、悠々と飛んでいる。
「シュフェン、■■■■、だめ!」
ルナイに手を引かれ、ぽかんと立ち止まっていた事に気付く。慌てて後を追い、雑踏をすり抜ける。どうしてもちらちらと露店や人に目がいってしまうが、気を引き締めてルナイの背中に集中した。
そうしてまた細い路地へ入ると、ルナイは少し歩をゆるめてシュフェンを振り返り、にこりと笑った。
「■■■■、また遊び■■くる」
嬉しくなって淑恵も笑顔を返し、ふと思い返す。
友達と遊んでいる時も、こんな感じだった。
命の危険など無い平和な日々。いつかそんな生活に戻れるのだろうか。