ビリー
五歳のビリーは母親の目の前で消えた。
アイオワ州はアメリカ国内のトウモロコシ収穫量でイリノイ州と常に一二を争っていて、ビリーの家もその他多くの農家と同じくトウモロコシ栽培を生業としていた。
畑から家屋まで戻る道すがらの午後三時過ぎ、幼いビリーは地球世界と決別させられた。
幸いだったのは、転移した先も同じような農地であった事だ。ビリーは小石に躓いて転んだ程度の衝撃で、異世界の農道へ現れた。
夫婦二人で世話をするには少し広すぎた農地で、大麦に似た作物を育てている老いた農夫のダンドラは、突如眼前へ転がり出たビリーに驚き、豊かな白い口髭をたくわえた口元からパイプを取り落とした。
すぐに自分で起き上がり、きょろきょろと周りを見回すビリーの快活で青い瞳がダンドラを捉えると、知らない言葉と小さな声で何かを尋ねてきた。
何しろ、なにもなかったはずの道へ突然現れた子どもに戸惑うのは当たり前で、この子が何処から来たのか聞きたいのはダンドラの方であったが、不安に顔が曇り始めたビリーを見て、老人は腰を落とし、かぶっていた鍔広帽を地面へ置いた。
言葉は通じずとも、幼子がこんな時に何を言っているか、意味は分かる。親を探しているのだ。
やはり、ぐすぐすと泣き始めたビリーにダンドラは柔らかく話しかけ、あやしながら手をつなぎ、妻と二人暮らしの母屋へ連れ帰った。
世界を旅する検道者になると息子が家を出て以来、妻のウォーラと静かに暮らしてきたダンドラにとって、ビリーは初孫と同然に感じられた。
ビリーの出自こそ訝しんだものの、精霊と魔法の満ちる世界にあっては不思議な事も起こり得るものだと割り切って、寄る辺なき子を新しい家族として迎え、ウォーラとともに惜しみない愛情を注ぎ、育てていった。
さて、”精霊と魔法の満ちる世界“とはいっても、実用されるのは主に戦場や貴族世界の話で、一般の民草には縁のない代物であり、初歩の魔法すら目にする機会はほとんど無かった。
精霊の力は自然と直結しているが故に、生きているだけでもその恩恵には与っているのだが、日々感謝を捧げ教会で豊作を祈っても、修練を受けていないごく普通に暮らす者達にとって精霊自体の存在を意識して知覚する事など、土台無理な話であったのだ。
環境がそうである当然として、農業に勤しむだけの辺境の地では魔法にまつわる事柄など望むべくもなく、魔法を初めて目の当たりにした時、ビリーは十三歳になっていた。そしてそれは戦禍という、想像するうちでは最も悪い部類で、ダンドラの一家に襲い掛かった。
自分達の住むジグサーラ王国と、西に国境を接するマドケン王国を合わせたものが、ダンドラの知る一番大きな世界の形だった。
ダンドラは王都はおろか、若い頃に領都へ二度ほど行ったくらいしか辺境を出た事がなかったのだが、自分の畑の遠く向こう、日の沈む山脈を越えた先がマドケン王国なのだとは知っていた。
マドケンは友好国、警戒すべきは北のパヴァル国家連合であり、万年雪を頂く険しい連峰が冷たい風もパヴァルの強大な武力からも守ってくれているはずで、マドケン王国が突如として国境を侵し、丹精込めた畑を踏み荒らす軍勢が現れた今も、ダンドラの中でそれは変わっていなかった。
変わったのは、ダンドラの知る世界の外である国の東側、ラガンス帝国との情勢だ。何年も秘密裏に練られた計略をもって、東西で呼応した両軍勢は、主だった穀物の収穫前を狙ったこの時期に、雪崩となってジグサーラ王国への侵攻を開始した。
午後に差し掛かろうかという頃、どろどろと大きくなる地響きに気付いたダンドラが畑の中から腰を上げ、そこに進軍するマドケンの国旗を見た時、盲信していた友好国は悪鬼へと豹変した。
ダンドラの姿を見留た騎馬の一隊が駆け出すと同時に、ダンドラも母屋へ向かって走り出した。
マドケンの領土へ繋がる主街道は南へ五日ほどの距離にある。そこには緩衝地帯をはさんで両王国の国境守備軍が駐屯地を構えているが、ダンドラの土地からそう離れていない丘にも、守備隊の小さな砦があったはずだ。
まさに、マドケンの軍隊が来た方向だ。砦の兵隊たちはどうしたのだ?侵攻を知らせる早馬など通らなかった。
老いた身体に息を切らせて懸命に走るが、ビリーとウォーラが中で作業している家屋へたどり着くその前に、矢がダンドラの右肩を貫いた。
もんどり打って倒れたダンドラが上げる苦悶の声と、急速に近付く馬蹄の音を察したビリーは、椅子を蹴倒し外へ飛び出した。ビリーの目に映ったのは、地面に倒れ伏した優しい養父の背中へ、陽光ぎらりと閃かせた剣が振り下ろされる瞬間だった。
目を閉じる間もなかったビリーの前で、弧を描いた騎士の剣はダンドラの背中へ吸い込まれた。
声の代わりに掠れた息しか出ず、ビリーは血を吹き出す養父のもとへ駆け寄った。豊かな白い髭が、瞬く間に赤く染まってゆく。がっくりと地面に落ちたビリーの膝は、しかし頭部の激痛とともにすぐ伸ばされ、そのまま両足はじたばたと宙をもがいた。
悲鳴を上げ抗うビリーの髪を掴み上げた腕がぐいとひねられると、青い房飾りの付いた冑が少年の顔を真近に覗き込んだ。
面頬の奥から冷たい双眸がビリーを射抜く。心を感じないそれに、背筋がぞっとした瞬間、ビリーの身体は宙に舞った。
少年とはいえ、十三歳の身体を片手で軽々と空高く放り上げられ、ビリーの視界も思考もぐるぐると回る。そして青房飾りが正面に見えた時、ビリーを投げて掲げられたままの左手が輝いたと思うと、放たれた光が右肘を吹き飛ばした。
さらなる衝撃できりもみしながら、ビリーの身体と引き千切られた前腕は、大麦の畑へ叩きつけられた。すでに意識はなかったが、まだ息がある事を確認されると、青房飾りはビリーを兵士に回収させた。ついでとばかりに、母屋の玄関で突然の惨事に泣き叫ぶウォーラの始末を命じると、馬の腹を蹴り進軍の先頭へと駆け戻って行った。
老夫婦の死体は母屋へ投げ込まれ、家ごと燃やされた。日が落ちて、マドケンの軍隊が辺境を過ぎ去ったあとには、畑の中に転がる、切断されたビリーの右腕しか残っていなかった。