淑恵
歩くだけでも人目を惹く、美女とよばれて遜色ない淑恵が異世界に飛ばされたのは、四四南村で自撮りをしている時だった。
台湾台北市にある四四南村は、第二次世界大戦後に大陸から避難してきた中国国民革命軍が住み始めた村であったが、一九九九年に再開発計画が持ち上がり、住人達は退去した。
いくつかの建物は文化財として残され、近年はカフェや雑貨屋も備えた観光地として有名だが、淑恵がこの地を幾度もSNSで発信するのはリノベーションされたお洒落な軍人村という理由だけではなく、自身がここで産まれた最後の世代だからだ。
モデルやインフルエンサーとして名が売れてきてはいても、二十四歳は決して若くはない。十代のライバルは毎日どこかで生まれている。今後映画俳優を目指し、世界へ舞台を移したいのならば、人間性にも厚みを持たせなければ。自分にとって、武器となる若さはもう失われたのだから。
そういった意味では、歴史のある場所に縁があるのは幸運と言える。他人とは違った人生へのアプローチ。使えるものは何でも利用して、のし上がってやるのだ。
だが野望を秘めた淑恵をからめとったのは、立っていた地面がいきなり消え失せた様な、急激な落下の感覚だった。何が起きたのか考えるより先に視界は真っ暗となり、意識もふっつり途絶えた。
地球世界から転移させられた者達で、即座の死を迎えずに済んだのは運が味方した者だけであり、淑恵もそのひとりだった。
石造りの建物がひしめく大きな都市、大勢の民衆と活気ある通りや市場、その影となる貧民街の路地、敷設されてから一度も整備などされていない石畳の上に、淑恵は倒れていた。
秋のコーデと紹介するつもりで撮影用に揃えた軽めのトップスにキャミワンピース、ヒールブーツは、高価な有名ブランドと庶民的な品を合わせたものだったが、布や糸自体が入手困難な、ましてや新しい服など望むべくもない貧民・棄民にとっては血を流すに充分な獲物であった為に、突如現れた女の不思議になど目もくれず争い奪い、気を失っている淑恵は、路地に転移してから数秒で丸裸となった。
服や装飾品を剥ぎ取ったのは、まともな盗みも出来ないが故に目ざとい幼子達で、最後に残った同年代に比しても肉感的な淑恵の裸体は、子どもらを蹴散らしのっそりと歩み寄った数人の男供の餌食となるが必定であった。
そこへ仕事帰りにたまたま通り掛かった、都市で義賊として名を馳せる一派が、淑恵を救った。
一派はそのまま淑恵を根城へ連れていき、未だ意識の戻らない彼女を介抱した。
淑恵がうめきを上げて目を開けるまでの半日、世話をしていたのはルナイという若い娘だ。
目を覚ました直後から聞いた事のない言葉で叫び、半狂乱になった淑恵に優しく語りかけ、落ち着かせた。
ルナイは親を知らない。幼い頃に裸同然で捨てられ、義賊一派に拾われるまで、散々な目に合ってきた。それが故に、一派が保護する似た様な境遇の者達には何が必要かも心得ていて、献身的に尽くした。
怯えていた淑恵は、そんなルナイに心をほぐされていった。ルナイ以外の、世話をやきにきてくれる老婆や無邪気な子ども達に、言葉は通じないが安心を覚えていっていた。
淑恵が、自分が元にいた世界と全く違うところにいるとはっきり自覚したのは、転移させられてから一ヶ月も経った頃だった。
寝起きしている部屋から自分の意思で出れるくらいには回復していたが、世間から隠れた根城ゆえか淑恵が自由に歩ける範囲には窓がなかったので、建物の外がどうなっているのか分からなかったのだ。
頃合いと見て取ったルナイが、淑恵にしてみればたっぷり五階分とも思える石の螺旋階段を登った先に連れ出した、その光景に、息を呑んだ。
中世を思わせる石造りの街並み、鐘楼を備えた尖塔、広く街を囲う壁、街の中心にそびえる巨大な城。
淑恵はそれまでテロ組織か何かに、ヨーロッパ周辺の山岳地帯、かなりの山奥へ拉致されていたのだろうと考えていた。義賊の者達は人種も様々だったが、西洋風な顔立ちをした者が多かったし、聞いた事もなく通じない言葉に、寒く、そして電気すらなかったからだ。
だが眼前に広がる分厚い雲から差す光、それに照らされて悠々飛ぶのは、大きな龍だった。淑恵の身近にあった東方の龍というよりは、ドラゴンと形容した方がイメージに近いだろうか。
しかもその背には、淑恵には正確な距離感は取れないが、家か船の様なものが載っている。人か荷物を運んでいると見え、使役されているのは間違いない様だ。
幻想的な光景に心も身体も震えた。
がしかし、次に去来したのは絶望感だ。
自分は一体全体、何処にいるのだ?
何故突然、こんなところに裸で放り出されたのだ。
膝が崩れ落ち、淑恵の視界は、はらはらと流れる涙で歪んだ。ルナイは遠く景色を眺めながら、その肩に手を置き、日が傾いても彼女が落ち着くまで、ゆっくりとさすり続けた。