【短編・シリーズ】高波ミナミは、素直になれない
それはずっと、幼い頃の記憶。
私、高波ミナミの父親は、ずっと単身赴任で離れたところにいた。
まだ小学校に入る前のことなので、父が隣町にいたのか、他県にいたのか、海外にいたのか、もしかしたら母が都合そう言っているだけで、本当はなにか軋轢があって建前上そう言って距離を取っていたのかは私には分からない。
とにかく私にとって、物心ついた時には父のいない暮らしが当たり前だった。
「ミナミちゃんは将来美人になるね〜」
母に連れられ出かけた先では、必ず容姿を褒められた。
私の母は、とても美人だ。
母は私を父似だと言って嬉しそうに笑ったけど、私はよく知らない父よりも、美人な母に似たらいいのにと思っていた。
母は週に何度かパートへ行くことがあり、私は幼稚園の友達である幸ちゃんと、幸ちゃんの親御さんに連れていってもらって家の近くの公園で遊んでいることが多かった。
ブランコがあって、砂場があって、塗装の剥げてパンダだったのかクマだったのか分からない何かの乗り物がある公園はそこそこ広くて、木々が植わったスペースを挟んで向こうには、地域の野球チームが練習するようなグラウンドも併設されていた。
人の行き来も多いその公園では、近所の、顔しか知らないような友達もたくさんできた。
やがて、面倒見のいい小学生のお兄さんお姉さんと一緒に遊ぶ間、私たちは、幸ちゃんの親御さんから離れたところで遊ぶことも増えていった。
「小学校はどっちかな」
それは、公園全部を使ってかくれんぼをしていた時、公園内のトイレ近くの茂みに、私と幸ちゃんが隠れようとしていた時のことだった。
スーツを着た男性が、私達に小学校への道を訪ねて近づいてきた。
高校に上がった今なら分かる、その男が変な奴だと。
かくれんぼをしている最中の、それも幼稚園の女児に道を聞くことがそもそもおかしい。
でも、人の悪意なんて分からなかった私は、お姉さんぶって教えてあげようとしてしまった。
私は立ち上がって、その男と向かい合う。
「小学校わかるよ」
「ミナミちゃんっ!」
幸ちゃんが焦ったように声を上げたことで、私もやっと異変に気付いた。
男は、私の言葉なんか関係ないとでもいうように、距離を詰めて来ていた。
ぬっと、私に影が差すほど近く、視界いっぱいに男の着ているスーツが見える。
男の体から発せられる熱気がこちらまで届くような錯覚すらした。
手が、私の胸あたりに向かって伸びてくる。
母の手とは全く違う、大人の男の手が、無遠慮にこちらに伸ばされている。
近い。怖い。近い。嫌だ。怖い。
「見つけた!!」
大きな声だった。
こちらに走ってくる姿があった。
一緒にかくれんぼをしていたうち、同い年の男の子が大声で何度も「見つけた!」と言いながら走ってきている。
彼は、私達が異様な状況にいることに、遠目からでも気づいているようだった。
私達のところまで、牽制をするように、周囲に知らせるように、大きな声を出しながら走ってきてくれている。
「チッ」
スーツの男性は舌打ちすると、逃げるように近くの公園出口から外に出ると、道路に停めてあった車に乗り込み、すぐさま去っていった。
「大丈夫か! なにされた!?」
息を切らした男の子は、私達を助けにきてくれたようだった。
私も、幸ちゃんも、状況が飲み込めないまま何も言葉にできない。
やがて男の子が、集まってきた他の子に幸ちゃんの親を呼んできてくれるよう頼んでくれて、私達は何も話せないまま幸ちゃんの家へと帰った。
連絡が入ったのか、幸ちゃんの家についてすぐ母が迎えに来てくれたが、その間の私の記憶はおぼろげだ。
時間を置いて、実感となった恐怖が押し寄せてきていた。
幸ちゃんの親が母に平謝りし、母と私の容姿がどうとか発育がどうとか言っていたのだけが頭の隅に残った。
何をされようとしていたのだろうか。
怖かった。
助かった。
怖かった。
家に帰り、母に抱きしめられた私はわんわんと泣いた。
その日は、母と同じ布団で寝た。
母のそばは安心でき、無事だったのだ、もう大丈夫だと思えたとき、助けるために駆けてきていた男の子の姿が思い浮かんだ。
彼の顔は、遠目からでも分かるほど、恐怖に強張っていた。
彼も怖かったのだ。
それなのに、私達の元へ駆けてくれた。
恐ろしい手が、私へ届くより早く、私の元へ駆けてきてくれた。
彼が「見つけた!」と叫んでいたことを思い出す。
かくれんぼの鬼もまだ数を数え終わらないあのとき、鬼ですらない彼は、自分を奮い立たせるように「見つけた!」と大声を上げ、恐ろしい男に立ち向かってくれた。
それに気付いたとき、私の胸にはポッポと初めての感情が灯った。
ドキドキする。
スーツの男の姿も、顔も何もかもおぼろげな中、必死に走ってきてくれる彼の姿だけが鮮明に思い起こされた。
顔が熱い。
心臓が、苦しいほどドキドキしている。
その日、私は溢れてくる感情を押し付けるように母にぎゅっと抱きついて眠り、まだ怖がっているのだと思った母は強く強く私を抱き返してくれて眠りについた。
それから私は外出できない日が続いた。
幼稚園から帰ると、家で遊ぶようにと言い含められた。
母が出かけるときは、幸ちゃんの親が幸ちゃんを連れて我が家へやってきて、母が帰るまでを過ごした。
私の頭の中は助けてくれた彼のことばかりだったが、幸ちゃんも彼のことはたまに一緒に遊ぶ男の子というだけで、家も名前も知らなかった。
そうして二ヶ月ほどが経ったとき、私の家は引っ越しをすることになった。
公園の件が決め手だったのかは分からないが、母が父と暮らすのだと言って、私は幸ちゃんとだけお別れをして数駅離れた街の、真新しい家へと引っ越した。
久しぶりに会う父に対しては、あの時の男性に思ったようには怖いとは思わなかった。
父の仕事は忙しく、家にあまりいないせいもあって、新しい家と生活はすんなりと私に馴染んだ。
心残りは幸ちゃんと遊べなくなったことと、助けてくれた大好きな彼にお礼が言えないままだったことだ。
家の近くの中学に上がっても、私は彼のことが忘れられなかった。
恋愛をテーマにしたドラマを見ても、クラスの子と貸し借りする少女漫画を読んでも、ヒーローの顔やセリフがあの時の彼にかぶって見えた。
私は初恋を大切に大切に育てていた。
クラスの男の子は子どもっぽくて、野球の話やアイドルの話ばかりしている。
男の子は、私に嫌がらせまがいのことをして気を引こうとするか、外見ばかりを褒めそやすばかりで、そんな彼らに私は嫌気が差していた。
私はちゃんと母に似て、中学生ながら大人っぽい美人になっていた。
彼に再会した時、きっとこの見た目は武器になると思ったので、自分の見た目は好きだった。
ある日、友達と出かけたときに雑誌に載せたいと声をかけられ、母にも了承をもらって雑誌モデルのようなことを何度かした。
有名な雑誌だったので、さほど離れていない街に住んでいる彼の目に留まらないかと思ったのだ。
彼との唯一の繋がりであるあの公園には行けば会えるかもしれないとは思っていたが、どうしても行けなかった。
怖くて、足が向かない。
雑誌に載って噂になれば、彼が私の顔を見て気づいてくれて、あの時みたいに「見つけた」と言って駆けてきてくれるんじゃないかと、夢見がちな想像ばかりしていた。
結局、彼から連絡が来るなどと言うことはなく、私は高校受験をする時期になっていた。
私は最後の望みを託して、彼と過ごした街の公立高校へと進んだ。
彼が同い年だったのは間違いないのだ。
理数科や専門学校に進む子以外は、このあたりの子はみんな家から近い高校に通うのが普通だった。
そして、その賭けに私は勝った。
まず、入学した高校で幸ちゃんと再開することができた。
飯田 幸子というフルネームは初めて知ったが、私たちはあの頃のように「幸ちゃん」「ミナミちゃん」と呼び合って再び仲良くなった。
幸ちゃんは、私達を助けてくれた男の子のことを覚えてくれていた。
そして、教えてくれたのだ。
私のいる1-Cの隣、1-Bに彼、榎田 祐介がいることを。
「ミナミちゃん、今日こそ見に行こうよ」
幸ちゃんが私の腕をぐいぐい引っ張る。
一見派手に見える私の外見と、一見大人しく見える幸ちゃんの、見た目と中身はチグハグだ。
私はいざとなると勇気が出ない小心者で、比べて幸ちゃんは潔くてハキハキしていた。
「だってぇ、なんて言って話しかけたらいいのよぅ……」
「『あなた、私と付き合いなさい』とか言っちゃえばいいのよ!」
「それ、”キミコイ”の悪役のセリフじゃない……」
「ミナミちゃん美人だし、イケると思うんだけどなー」
幸ちゃんは口を尖らせて「つまんなーい」と言った。
隣のクラスの榎田祐介を見に行くのに付き添ってくれると幸ちゃんは言ってくれるが、私にはあと一歩の勇気が出なかった。
高校一年、同じ中学の友達が誰もいない私は、雑誌に載ったという噂もあって少しだけ浮いていた。
幸ちゃんのおかげで同じクラスの女の子たちとは仲良くなれたが、知っている人もいない隣のクラスへ行くのも、彼を間近で見るのも緊張してしまってだめだった。
隣のクラスが体育の授業のために校庭に集まっているのを、教室からチラチラ見るのが精いっぱい。
でも、遠目でも、十年以上ぶりでも、彼のことはひと目で分かった。
米粒みたいに小さく見えるほど遠くにいても、彼の姿は不思議と目で追えたし、声変わりした彼の声もすぐに覚えた。
もう、私は、ぞっこんラブだった。
そんな一年が過ぎ、二年に上がった私は、先に見たらしい幸ちゃんに引っ張られてクラス表の前に連れて来られていた。
見なくてもわかる。
幸ちゃんの興奮した様子、自分のことのように嬉しそうな姿。
クラス表の上の方、名簿にはやはり”榎田 祐介”の文字があった。
「おなっ、同じクラス! 同じクラスだよ! やったねミナミちゃん!」
大はしゃぎする幸ちゃんの言葉は、私と幸ちゃんが同じクラスになれたことを喜んでいると周囲は捉えただろうが、私にはその真意が分かっていた。
「幸ちゃん、どうしよう〜」
私は、人前であまり見せないほどにうろたえ、情けない声を出した。
幸か不幸か、しばらくの間、席は名前の順だった。
彼の”榎田”と私の”高波”はほどよく離れたが、幸ちゃんの”飯田”は彼のすぐ近く、斜め左後ろの席だった。
幸ちゃんは休み時間になると、頑なに自分は席を立とうとせず、私を自分の席に呼び出した。
彼も彼でいつも一緒にいる伊東を連れて堺の席に集まって行くことが多かったから、幸ちゃんの思惑は外れてばかりだったけど。
変化があったのはこのクラスになって初めて、夏休みまであと二ヶ月ほどになった頃の席替えでのこと。
私は、これほど席替えが緊張する行事だったとは思いもしなかった。
数字の書かれたくじを引くのも、先生が黒板に書いた座席に数字を振っていくのも震えて見ていた。
自分の位置を確認したのだから、さっさと移動すればいいのに、私は彼が伊東と堺と話す声を全力で拾っていた。
「お前は? 祐介」
伊東が聞く。
「俺? えーっと……」
ドキドキと信じられないくらい大きな音を立てて心臓が鳴る。
「あー、窓際だわ」
私も、窓際。
続けて彼が紡ぐ言葉の他は、この五月蝿い教室中がまるで無音のようにすら感じた。
「二十三番、窓際の真ん中」
世界が、変わった気がした。
頭が真っ白になる。
どこからか、幸せを祝福しにきた天使が空からラッパを吹きながら舞い降りてくる。
おめでとう、おめでとう、と天使たちの幻聴が聞こえる。
アハハ、ウフフ、と彼らが笑い、花びらが舞い、光が差し、清々しい風が吹き抜けるような幻覚さえ見えそうだった。
「ミナミちゃんどの席?」
突然かけられた声に体がビクリと震える。
私のその反応だけで、声の主、幸ちゃんには十分だったようだ。
彼女がニヤリと笑ったのがわかった。
「グッドラック」
窓際に向け、私の背を押す彼女はとても力強かった。
私は、おずおずと新たな彼の席の、その前の席へと座った。
+ + +
席替えをして物理的に距離が縮まったあとも、私は彼、榎田祐介に話しかけられずにいた。
朝いつも私よりも早く席についている彼。
プリントを回すとき、私が楽なように少しだけ前のめりに受け取ってくれる彼。
一度、消しゴムを落としてしまったとき、拾ってくれた彼。
私は、挨拶も、目を合わせることも、お礼も言えずに毎日ただただドキドキとしていた。
幸ちゃんは私の小心を知っているので、彼が後ろにいるときは授業の話など、当たり障りのない話題を振ってくれる。
そんなある日、幸ちゃんに、一緒にアルバイトをしようと誘われた。
学校からも近いファーストフード店でアルバイトを始めたらしい幸ちゃんは、「そんなに大変じゃないし、夏休みまでにいいお小遣い稼ぎになるよ」と、ちょっと怪しい勧誘みたいに誘ってきた。
少し違和感はあったけど、母も校則の範囲なら構わないと言って許してくれたこともあり、放課後アルバイトすることにした。
調理場の幸ちゃんとは違い、私は注文受付の担当になった。
店長の女性は「変な客来たらちゃんとぶっ飛ばすから、綺麗なお顔で客寄せパンダよろしく〜」と私の外見を利用する気満々の発言をしたが、正面切ってそう言われたらいっそ清々しかった。
そして、アルバイト初日、知った。
この店に彼が来ることを。
それを知っていた幸ちゃんの策略だったことを。
動揺しまくった私は、ちゃんと会計できたのが奇跡のような状態だった。
かろうじて、このチャンスを無下にしたくないと、商品ができるまで注文カウンターに留まるように言えたが、何も話せないままだ。
客が注文カウンターから離れないし、私の様子がおかしいことに気付いた店長が、手際よく商品を調理して持ってきてくれたが、私の顔を見るなりニヤリと笑い「ハハーン」と声に出して言ったので、私はさらに動揺を隠せなくなってしまった。
その日の帰り道、幸ちゃんに文句を言ってコンコンと説教をするつもりだった私は、逆に幸ちゃんに諭され、アドバイスをたくさんもらい、そして高揚した変なテンションのまま、彼女に言われた作戦を実行に移すことにした。
その名も、「古文の津田は出席番号で当てるでしょ作戦」だ。
その名の通り、古文の津田先生が、出席番号順に教科書の訳を当てるのを利用して話しかけるきっかけを作る作戦だ。
そして明日は、六月七日、つまり出席番号七番の彼、榎田祐介が当たる日。
明日の一限は古文だ。
動揺のまま、幸ちゃんに洗脳された私には、この巡り合せはもう運命だとしか思えなかった。
家に帰った私は、今日せっかくのチャンスを不意にした後悔と、幸ちゃんからかけられた勢いのよい発破のままに、ドキドキしながら教科書の訳を書き起こした。
古文は得意だったので、訳はすぐできた。
それでも、少しでも彼に好感を持ってもらいたくて、綺麗な字が書けるまで何度も何度も書き直した。
人生初めてのアルバイトの疲れもあり、その日はそのまま寝てしまっていた。
変な時間に寝たせいで朝早くに起きた私は、重大ミッションを前に寝直すこともできず、朝風呂に入り身支度すると、もう一度だけ気に入らない字を書き直してからいつもよりずっと早い時間に家を出た。
「おはよう」
私は本番に強いほうだ。
何度もイメージトレーニングしていたおかげか、違和感なく挨拶できたはずだったが、彼は少し驚いていた。
普段、必要最低限以外は会話もしないのだから当然か。
「おう」
彼が返事してくれただけで胸がいっぱいになる。
泣きそうだ。
そして、私が考えうるなかで一番自然な会話の流れで彼に古文のノートを貸すことができた。
途中、ぐいぐいとノートを見せる私を、なにか勘違いした彼が「高波って綺麗な字なんだな」なんて言ったときは、昨日頑張った私を全力で撫でてしまった。
ヨーシヨシヨシと脳内の私を猫可愛がりする。
ちょっとは距離が縮まったんじゃないかとか、これから毎月七日はこの話題で話しかけられるんじゃないかとか、私はそんな生っちょろいことを考えて、緩む頬を隠せないでいた。
それなのに。
なぜこんなことに。
+ + +
放課後、もしかしたら今日も来るかも、なんて思いながらアルバイトに入る。
今日は古文のノートの話題がある。
幸ちゃんのアドバイスに本当に感謝だ。
注文を受けたら、またカウンターで待ってもらって、「結局古文当たらなかったね(笑)」、これだ。
脳内シュミレーションもばっちりだった。
それなのに。
今日やってきた彼は、伊東も堺も連れずに一人で入店して注文カウンターまで来ると、まっすぐ私の目を見て「明日、放課後、校舎裏のベンチで話がしたい」と言った。
放課後校舎裏のベンチで話すことなんて、告白しかない。
私は、カクカクと壊れた人形のように頷くばかりだ。
きっと顔は真っ赤だろう。
「注文しなきゃだよな。えっと、コーラ持ち帰りで」
彼は決まり悪そうに後ろ頭に手をやり、目をそらしたままそう言った。
「Mサイズでよろしいですか」
「おう」
アルバイト初日にやった研修は、これだけの混乱のさなかにいても、きちんと生かされていた。
翌日である今日は、一度も彼と目が合わなかった。
合わせられなかった。
今日に限って後ろに回すプリントがなかったのは、神様のいたずらだと思う。
放課後までの授業はなにひとつ頭に入ってこず、けれど永遠のように長い時間に感じた。
最後の授業が終わると同時、いつも教室に残っている彼が準備していたように立ち上がり、教室から出ていったのが音で分かった。
私は、クラスメイトの半分くらいが帰るまで、席から動けなかった。
幸ちゃんには、今日は一緒に帰れないことを伝えた。
彼と、私の様子に何か察したのか、幸ちゃんは一言「がんばれ」と言ってくれた。
アルバイトは今日は幸いシフトに入っていない。
そうして、十分に深呼吸し、落ち着いてから校舎裏へと向かった。
+ + +
「高波ミナミさん、好きです」
想像していたけれど、夢の光景が本当に現実になった。
もう、泣きそうだ。
目にじわじわ涙が溢れてきているのが分かる。
人気のない校舎裏のベンチ、定番の告白スポットであるそこで、隣同士に座った彼から、私は告白を受けることができていた。
「嬉しい……。嬉しい、です……」
それしか言えず、私は嬉しい嬉しいと繰り返してしまう。
頬にも熱が灯る。
彼がこのあと「付き合ってください」と言ってくれたら、「はい」と応えて、「私もずっと好きでした」と伝えよう。
私がそう、これからの会話を考えていたときだった。
「聞いてくれてありがとう。それだけで満足だよ」
そう言って彼は、なんだか満足そうな顔をしてベンチからスクっと立ち上がった。
「え」
私は、状況が飲み込めず呆然とする。
先程まで喜びに打ち震え、零れそうだった涙がすっと引く。
「これからも、クラスメイトとして仲良くしてくれると助かる」
「いやいやいや」
よく分からないが、彼は伝えただけで満足と言っている。
両想いだったのだから、付き合えばいいじゃないかと私は混乱している。
しかし、私の反応をどう受け取ったのか、彼は「好きだと言った俺が近くにいるのはいやだ、よな」なんて言い始めた。
「なんでなんでなんで」
もう私はパニックだ。
後は彼に、「付き合おう」と言ってもらえれば全てうまく行くのに。
「ごめん、困らせたいわけじゃないのに」
「つ、付き合いたいよね? 榎田、私と付き合いたいよね?」
もう誘導尋問でも構わないと、直球で聞く。
情緒も何もないが、知ったことか。
「いや、付き合えるだなんて思ってないよ。気持ちを伝えられれば満足だ」
「嘘でしょ……」
愕然とした。
彼はなぜだか、私と付き合いたいとは思ってくれていないらしい。
彼も私のことを好きと言ってくれて、やっと両想いになれたのに。
いや、ここまで来て、この初恋を諦めるなんてできない。
何年悶々としてきたと思っているのだ。
私は一度ぐっと両手を握ると顔を上げる。
「じゃ、じゃあ、友達! 友達ならいいでしょう!?」
私の譲歩には、さすがに彼も「そう思ってくれるなら嬉しいかな」と頷いてくれる。
絶対に、付き合いたいって言わせてみせる。
もう一度、先程の告白が私の勘違いじゃないと確信したくて、胸の前で両手をぎゅっと握り、勢いのままに尋ねる。
「榎田、私のこと好きなんだよね!?」
「ああ、でもちゃんと好きじゃなくなるから待っててくれ」
なんで!? なんでなの!??
私には彼のことが分からない。
ずっと彼を見てきたつもりだった。
話さないでも分かったつもりになっていたことを思い知る。
もはや私は地団駄を踏む勢いだったが、再び、彼から落ち着いた声がかけられ我に返った。
「高波」
目があった途端、彼の真剣な眼差しに私の脳みそはトロトロに溶けてしまう。
無意識に口からは「凛々しい顔、好き……」と心の声が漏れてしまった。
その上、舌も回らなくて「しゅきぃ」ってなってしまった。
もうなんでもいい、伝われ、この想い。
「高波、好きだよ」
再び伝えられた言葉。
熱っぽい視線。
もう私は腰砕けだ。
死んじゃいそう。
液体になる一歩手前のような、ポケーっと惚けたままの私に愛おしそうな笑顔を残して、彼、榎田祐介は去っていった。
去っていく背中まで格好いい。
彼の姿が見えなくなるまで、私は彼の去っていく方を向いて惚けていた。
+ + +
彼が去ってしばらく。
少し冷静になった頭には、後悔しかない。
私が、彼の好意に返せていなかったことに気づいたのだ。
「──なんで! なんで『私も』の一言が言えないのよぅ!」
素直じゃない性格が、こんなところで裏目に出るとは思わなかった。
きっと彼は私に振られたと思っている。
「嬉しいって言ったじゃない〜〜」
独り、わあわあと言うが、高波ミナミが告白を断るときはきっぱりはっきり拒絶するなど、彼が知るはずもない。
わかっている、誤解だと伝えて、私から彼に告白しなおせばいいのだと。
けれど、小心な私は彼に話しかけるだけでも丸一年以上うじうじしていたのだ。
「呼び出すなんて、できないぃ〜」
なおも「ムリぃ……」などと情けないことを言いながら、私は、縋るようにスマホを取り出すと、トークアプリでまだアルバイト中であるだろう幸ちゃんへ「たすけて」とへなへなの指でエマージェンシーを送ったのだった。